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図工・美術教育は、なぜ必要なのか?


長いので、PDF書類もつくりました。

●図工・美術教材はなぜ必要なのか ●図工・美術教師の資質 ●図工・美術が好きな子・嫌いな子

このページは、必ず毎日複数の人訪問してくれています。
とてもありがたいことだと思うと同時に、文章の内容に責任も感じております。
そこで、追加したい文章もありましたし、もう少しきちんとまとめ直そうと思い、20141127日リニューアルいたしました。
かつてこのページをご訪問され既読された方も、再度読まれることを切に願います。





図工・美術の授業は、絶対に必要であると言い切れるのである。
いや、それどころか、図工・美術の授業というものは、数学や国語よりも(そこまで言い切ると語弊があるが…)、もっと社会に出てから役に立つスキルが身に付くと言い切れるのである。
それも、感性とか表現力とかの観念的な言葉を使わずにである。
学校での図工・美術の授業は、なぜ必要なのか。
図工・美術によって身につく能力は、私が知っているだけでも10はある。
それは、以下のような、生活上・職務上、重要かつ効果的な能力である。


○自己解決能力(克服する力・乗り越える力)
○自己決断能力
○シミュレーション能力
○デッサン力(全体を見る力・細かいところにとらわれない力・バランスを見る力・頭からやらない力)
○デザイン力(設計する力・プレゼンする力・相手のことを思いやる力)
○やり直せる力
○創造力(答えの用意されていないものへ回答する力)
○個性の時代への対応力(群から個の時代へ)
○手を使う技能をアップさせる
○危険への免疫力


●自己解決能力(克服する力・乗り越える力)●
 絵を描いたり、ものを創作することは、楽しいことばかりではない。
いや、プロであればあるほど、その制作している最中は、意のようにならず、苦しんだり、悩んだり、はがゆいことばかりである。
これが「生みの苦しみ」である。
 しかし、そんなに苦しんでまで、どうして作家は創作活動をやめようとしないのか。
それは、それができあがったときの喜びが、制作途中の苦しみよりも何倍も大きいからである。
 だから、作家は途中で投げ出さずに制作し続ける。
きっと乗り越えられるだろう自分を信じて。
自分を信じるからこそ、また乗り越えられる。
 逆に言えば、苦しい創作活動を経験したものは、問題を克服する力・乗り越える力を身につけることができるのである。
打たれ強い自己を形成することができるのである。
 
 近年、アメリカ合衆国では、各州で芸術教科を削減してきた。
日本のシステムと違い、この国では、州によってカリキュラムや指導内容の編成が異なる。
州の方針によって芸術教科がカリキュラムからはずされ、予算が削減されると、音楽や美術の教師はその年からいきなり解雇される。(そうでなくとも、アメリカの教師は夏休み期間の給料は出ないので、皆アルバイトをして食いつないでいる)
このような、アメリカにおける芸術教科の削減と芸術教師の解雇の状況は、映画「陽のあたる教室」に描かれている。
しかもこの映画は、日本では何と「文部省推薦映画」になっている。
つまり、うがった見方をすれば、アメリカの後を追う方針の文部省は、この映画を推薦映画にすることで、アメリカの方向性を日本に啓蒙しようとしているともとれるのだ。
「アメリカでもこうなのだから、日本も後を追うべきだ」というわけである。
 日本やアメリカのこのような方向性から、さらに次の2012年ぐらいの学習指導要領の改訂では、学校教育における芸術教科はついには消えてなくなり、技術家庭科、美術科などは一つに統合されて「創造科」とされるのではないかと言われてきた。
つい最近までは、この予測はかなり信憑性のあるものだった。
 ところが、ここへきて若干状況が変化してきている。
1998
年までは、たしかにアメリカでも各州でどんどん芸術教科の削減と予算の縮小が行われてきた。
ところが、最近になって「芸術教科にたずさわった若者は、少年犯罪に走りにくい」「芸術教科をやっていた若者は、問題解決能力がある」というデータが出てきたのである。
 アメリカは、日本以上に少年犯罪に頭を悩める国である。
それで、2年前ぐらいから各州で草の根的に芸術教科の復活とその予算をとるように要請する運動がおきはじめている。
つまり、先に述べた「陽のあたる教室」という映画は、アメリカ国内におけるプロパガンダであったのだ。(これは時期的にも一致する)
 最近になって少年犯罪が多発しはじめている日本でも、最近は道徳教育の重要性や奉仕活動、また、20人学級(本格的に実現し、すでに予算も計上される予定)への移行が急ピッチで進められている。
アメリカに「右へならえ」の体質を持つ日本では、アメリカで芸術教科の見直しが進められていることは、少なからず影響してくるだろう。
ただし、前述のように日本の官僚機構は、計画・発案からその実行までに約20年かかるので、芸術教科の復活までは、さらに20年を要するだろう。
とはいえ、最近の20人学級や英語科の姓名の順序変更は、今までとは違いかなり迅速な対応をしているので、今までのように時間がかかるとは限らないが。

●自己決断能力(自分で決めることのできる力)●
 会社組織の中にいると、いかに自分で決められない人間の多いことか。
上の指示を待ち、責任を回避する人間の多いことか。
しかし、制作する過程では、幾度となく自分で決断しなければならないシーンに遭遇する。
自分でこれを描くことを選ぶ。自分でこの色で描くことを決める。
自分で決断することの連続である。
創造・制作という作業は、自分で決めることのできる人間、自分で責任をとれる人間を形成するのである。

●シミュレーション能力●

ここにこの色を塗るとどうなるか。
普通は、塗ってみないとわからない。
このシャツにこのスカートをはくとどうなるか。
普通は、身に着けてみないとわからない。
 しかし、造形活動をやっていると、シミュレーション能力が身につき、上記のようなことがやる前からイメージできるようになってくる。
この服の色にあうのはどの色か、この絵にどの額が合うかなど、ほぼ想像通りになる。
シミュレーション能力は、色、形のような造形活動に生かせるばかりではない。
仕事、作業、家事、内外装、ファッション、年賀状のレイアウトなどの色々なシーンでシミュレーション力を身につけていると便利である。

●デッサン力(全体を見る力・細かいところにとらわれない力・バランスを見る力・頭からやらない力)●

一般的に、一般大衆は、人は細かいところを見て、そして、細かい部分にとらわれやすい。
デッサンをやったことのある人間は、全体像から入る。
企画・立案などについても、全体からバランスを見ながら細部に入っていく。
仕事のやり方の下手な人、能率的でない人ほど、頭からしらみつぶしにやろうとする。
 全体のバランスを見る能力。それはまさにデッサン力によって身につけられる。

●デザイン力(設計する力・プレゼンする力・相手のことを思いやる力)●

デザインとは、設計のことである。
前項のデッサン力とダブルが、全体の設計をするのがデザイン力である。
 また、設計とは、その目的・コンセプト・何をしたいのか・何を伝えたいのか等に合ったものを構築してあげることである。
そこには、相手の気持ちや都合を見る力・思いやる力が必要になってくる。
相手のことがわからないとデザインというものはできないからである。
 この力を身につけるのは、他でもない、図工・美術におけるデザインである。

●やり直せる力●

一般的に、一般大衆は、失敗は許されないと思っている。
一回で、最初からノーミスでなくてはならない。それが理想だと思っている。
失敗したら、もう終わりだと思っている。
しかし、創造・造形・美術の経験者は、そうは考えない。
最初からうまくできるはずはないと思っているし、失敗したらやり直せばすむことだと思っている。
これは力(パワー)である。
失敗してもかまわないから、何度でもやり直せる力を持つことは、自己の克服や成功につながる。
 学歴が高い青年で凶悪犯罪を犯した者は、一度の失敗で、人生の全てが終わったと思ってしまい、そこからドロップアウトしまうことが多い。
あるビジネス書に書いてあったこと。
「成功者はなぜ成功するのか。それは成功するまでやったからである。」
「やり直せる力」を鍛えるには、美術がうってつけである。

●創造力(答えの用意されていないものへ回答する力)●

数学や理科には決まった答えが用意されている。
しかし、芸術・創造・制作というものには、答えが無い。
図工・美術は、他人が答えを準備してくれていない。
答えは、制作している自分の心の中にある。(イメージの中にある)
そして、その答えを自分で引き出さなければならない。
その作業は、他人が準備してある答えを当てることよりも何倍も大変である。
しかし、この作業は自己の能動的作業性を育むのだ。
0
であるもの(無いもの・存在しないもの)に答えを与えて実在させる。
創造力を培う作業は、芸術科以外では考えられない。

●個性の時代への対応力(群から個の時代へ)●
マス(群)の時代は終わった。
これからは個の時代である。
 
●パーソナル(個人)コンピューターの登場
●コンピューターゲームの登場
●携帯電話の登場(個人向け)
●インターネットの登場
IT(インフォメーーション・テクノロジー)革命
●インターネットによる取り引き(売り手も買い手も個人どうしの商売)
●これらは、個人や小規模小売店にメリットがあるが、大企業ほど不向きなメディアとなる
●個が大企業と等価になりうる世界
ITやインターネットによって突然出現した個人の長者や小売店の長者
●ルートではなくネットの販売(故に大と小が対等となる)
●卸し業務不要論(アスクルの出現)
●小国や民族の分離・独立
●デジタル世代
●オタク世代の登場(個人・コンピューター)
◎個人旅行のブーム

●趣味嗜好の多様化・分散化
●倫理・道徳・規範・価値観の多様化・分散化(国家・民族一個人というよぅに、大きな群れから個に向かう)
●ブームの不在
●紅白歌合戦やレコード大賞こおける世代を超えた共通ヒットの不在
●スカイパーフェクTVなど多チャンネル時代
●ブームを起こせぬ広告代理店(コギャル文化の登場)
●オン・デマンド商品
●多様化する商品・増えるアイテム・細かい注文
●小ロット生産
●歌声喫茶(集団)からネットカフェ(個)へ
 
これからは、このような時代の変化に対応できる人間を育てなくてはならない。
従来のような、マスとしての集団や会社組織に対応した人間ではなく、個の時代に対応した人間を育てなくてはならない。
個の作業に一心不乱に打ち込むこと。自分と向き合う。自分を見つめる。
本来、美術の作業は、個として作業を行う場面が多い。

○手を使う技能をアップさせる

これは、もちろん巧緻性も含まれる。
手を使用することは「ヒト」として重要な能力を身につけることである。
手を使うことは、脳にも良い。
美術は、まさしく「手を使う」教科である。

○危険への免疫力

危ないから刃物を使わせない。
怪我するから刃物は使わせない。
やけどするから火は扱わせない。
本当にそれで良いのだろうか?
そのせいで、危険というものに対する対処ができない子供が増えつつある。
ある程度の危険に遭遇して、危険というものに対する免疫をつけておかなければならない。
子供の頃に小さな危険を体験していないから、大人になって大きな怪我をすることになる。
刃物。工具。火。子供は色々な危険を体験しておかなくてはならない。
そのためにも、それらを上手に使うことを習得する授業が必要である。
図工や美術科には、そのような場面がたくさんあるではないか。


<その他、ここにあえて挙げてないもの>
●表現力(図工・美術だけではなく、国語、音楽などでも表現力においても表現力を養う場合がある)
●感性(感性の本来の意味は、本来は五感のセンサーとしての能力を言うにすぎないのであって、かなり拡大解釈および意訳されている)
●美しいものを美しいと言える力(それを言うのなら「醜いものを醜いと言える力」も同時に育つことになる。思いやる心の方が大事。)

なぜ図工・美術教育は必要なのか?

私は、大学生(教育学部美術科)時代には、「なぜ絵を描くのか?」「自分が描きたいことは何なのか?」「絵を描く意義は何なのか?」「絵画は本当に人類に必要なことなのか?」ということについて、いつも自問自答していた。
そのくせ、この頃の私は、芸術至上主義者であり、極めて偏った考え方の持ち主であった。
「芸術は他の何ものにも勝る。」そして、「芸術作業を行うためには、他の(例えばバイトなど)も犠牲にしても許されるのだ。」などと考えていた。
 今から考えれば、おそらくこれは、美大に行きたくても父親に熊本を出ることを許されず、美大受験を断念してしまった自分の中に生じた美大へのコンプレックスからのことだと思えるのだ。
美術科の中では「自分は他の学生とは違うのだ。本当は美大に行く能力のある人間なんだ。」「親のせいでしようがないから教育学部にいるんだ。」と自分に言い聞かせ、そして他の美術科生を見下していたと思う。
さて、美術教師時代にはまたしても、「なぜ美術という教科が必要なのか?」「本当に必要な教科なのか?」ということをずっと考え続け、答を探しつづけていた。
この美術教師時代の「なぜ美術という教科が必要なのか?」については、他の教科が(一見して)世の中に出てすぐに役立つ教科であり、保護者もまた、国語や数学の成績を重視していることからくる、私の中に生まれたコンプレックスによるものだと思う。
実際に私立受験だと、国語・数学が最も重要で、これによる最終学歴が次の就職に関連していると想起させるので、必然的に国語・数学・英語を重視するようになる。
逆に言えば、相対的に美術・音楽などは不要な教科と思われてしまい、受験のための時間をそいでしまっている教科とさえ思われてしまう。
 事実、自分の子供の担任の教師が数学や英語ではなく、美術などの技能教科が担当であることがわかると、保護者は「大丈夫なのだろうか」「受験に響かないだろうか」という顔になったり、実際にそう口に出したりする。(失礼極まりない!)
また、自分の子供が美術部を希望して入部すると、親は「どうして美術部なんかに?」「体を鍛える運動部に入って欲しかったのに」と言う。(本当に何回か言われた)

美術部には成績上位の子供が集まりやすい

ところが、現場にいる教師は(口にこそ出さないし、その理由もわからないけれど)何となく気づいている。
美術部には、2種類の子供が集まることを。
一つは、美術が得意で好きな子供であり、これらの子供はたいていの場合、成績が上位である。(運動はそうでもない)
もう一つは、成績も運動も得意ではない子供であり、(あえて言えば)美術も得意ではない子供で、運動部はいやだし、仕方が無いから美術部に在籍している子供。
つまり、全体として、以下のように言える。

成績の上位の子供が全て美術が得意なわけではないが、美術の得意な子供には、成績の上位の子供が多い。(美術と成績の間には相関関係が垣間見える)

成績の上位の子供が全てスポーツが得意なわけではなく、スポーツが得意な子供が成績が良いとも限らない。(スポーツと成績の間には相関関係が見えない)
ごくまれに、国語・数学・英語などの成績が抜群に良いが、美術だけが不得手な子供がいる。(右脳が発達してないが、他教科は小さい頃からの訓練によって克服していると思われる)
逆に、ごくまれに、絵はずば抜けて得意だが、無口で成績が低い子供がいる。(左脳は発達していないが、右脳が発達している)
また、理屈をこねる子供、屁理屈を言う子供(屁理屈は論理である)、自分の気持ちに正直すぎて学校という体制に反抗している子供、集団生活や組織になじめない子供などは、たいていの場合、絵が得意である。

逆は真か

美術が得意な子供は成績が良い。
では、逆は真であろうか?
つまり
成績が上位だと、必然的に美術の能力も持ち合わせていると考えられるのか?
逆に、美術の能力(空間認識能力・平面認識能力・表現力・創造性)を高めると成績は上がるのか?
 国語・数学(算数)・英語や理科・社会のみのいわゆる主要5教科のみを訓練によって成績アップさせても、上述のように国語・数学・英語などの成績が抜群に良いが、美術だけが不得手な子供がいることから、主要教科の成績をアップさせても美術の能力が上がるわけではない。
 では、美術の能力が上がると、成績は上がるのか?
結論から申し上げると「yes」であることにたどり着いた。(そう思うに至った根拠については、後述する)
色々な職業をやってみて
 「なぜ、図工および美術教育は必要なのか?」という命題に対し、美術教師時代から答を探し続けてきた。(もう30年以上も)
しかしながら、ずっと美術教師をやっていたら、私にはこの答は見つけられなかったように思う。
 前のページ「なぜ美術教育は必要か」で書いたのは、教師を辞めて一般の企業で働くことで知った「世の中で働いているなかで美術教育が有効と思えること」だ。
ここで書かれていることの中には、もと都中美会長の田中敬二先生との会話の中からのヒントも含まれている。
 さて、私がこのy-honpo株式会社を立ち上げてから、すぐにこの会社だけで食べていけるわけではなかった。
派遣講師として進学塾をかけもちでやったり、家庭教師もやった。
不思議なもので、美術教師時代は、美術教育側からの視点でしか子供や教育というものをとらえていない。
他の美術教師もそうなのだと思う。
美術教育は、受験教科と無関係であり、受験教科の対極にあると言っても良い。
たいていの場合、図工・美術教師は受験を悪者としてとらえており、その対極にある図工・美術を正義として子供や教育を論ずる。
また、美術教材問屋(および美術教材業界)においても、同様に自分たちは「非受験の教材を扱っており、これは受験の対極にある商品」であるという認識を持っている。
だから、美術教師も美術教材業界も、受験がヒートアップすると自分たちの食い扶持に影響するので困ると考える傾向にある。
受験は悪しき風習であり、進学塾などは自分たちの対極に位置している(もしくは無関係)であると考えている。
 たいていの教師は、一生同じ教科を持つのので、そんなに考えが変わることも無いのだと思う。
ところが、私の場合、進学塾で、しかも美術とは全く対極にあると思われていた算数や理科(国語や社会も教えた)を教えることになった。
 美術教師と教材小売。教材小売と教材問屋。いつも相対するものの向こう側とこちら側の両方を経験してきた私であるが、またしても、芸術教科と受験教科という相対する(と思われている)ものの両方を経験することとなった。
 ちなみに、美術教育の世界にいたときと、そうでない世界にいるときとでは、子供、親、全てが違って見えてくるものだ。
 
塾・家庭教師での結論
私は「わかりやすい教え方」ということに関してはもともと自信があった。
最初、塾ではよく絵を描いたりして「わかりやすい教え方」を重要視して教えていた。
しかし、学力の定着ということになると、そのときだけ「わかった」ではダメなのである。
やはり、繰り返しの訓練というものが必要になる。
塾によっては、大量の宿題による訓練を重視して、授業は何の変哲も無い(教師の個性の無い)塾もあった。
ところが、ここは宿題の多さが常に問題になっており、理屈がわからないまま訓練で何とかしようとする風潮があった。
 理屈や図を駆使した「わかりやすい教え方」が需要なのか?そうすれば、宿題も少なくてすむのか?
それでもやはり、学食の定着のためには、ある程度はドリルなど訓練的なものが必要なのか?
私にはわからなくなっていた。
 ところが実際に受験の頃になってみると面白い現象が起きていることに気づいた。
宿題もろくにやってこないが、個性的でいわゆる地頭が良い子供は、偏差値の高い学校に受かる。
教師の言う通りにくそまじめにノートを取り、宿題をきちんとやってはくるが、常に受け身であり、発想力・創造性が低く、小テストでは常に満点近い点数を取るが、ひねった問題、実生活とからめた問題になるとてんでわからなくなるという傾向にある子供は落ちる。
前者は「自ら学ぼう」とする子供であり、後者は「他から教わろう」とする子供である。
おりしも、この頃某週刊誌に掲載されていたことで、開成中学校に合格した複数の子供の生活がレポートされていたが、同じような傾向が見て取れた。
趣味、ボランティア、目標を持っている子供(学習塾以外に自分のことに時間を割いている子供)の成績が良いと書いてあった。
そこで私自信の子供の頃のことも思い出してみた。
私が小学生や中学生の時代は塾や家庭教師で勉強する者などいない時代であったが、学力は現在の日本よりも明らかに上だった。
 私はモーターやギヤや豆電球を使って工作したり、ベニヤを切ってブーメランを作ったり、学研の付録を作って遊んだり、プラモデルをつくったり、中学時代はUコンを自分で設計して制作したり、模型エンジンをいじったり、ギターを弾いたり、作曲したり
勉強以外でも結構忙しかったものだ。
しかし、今から考えれば、手を頭を使ってそれらの作業をすることで、明らかに空間認識・平面認識・展開図・計算などが身についていると思えるのだ。
手作業・手づくり・造形・創造・経験・実験
これらは、本来子供が好きだが、学校の授業から奪ってきたものだ。
授業時数の削減、理科授業の削減と行われなくなった実験、技能教科の削減。
それにとって代わるゆとり教育だったのだが、結果として、授業時数の削減の影響を危惧した保護者たちは子供たちを通塾させることを選び、さらにそのことによって子供たちが放課後の経験学習を積む時間は無くなってしまった。
ゆとり教育は、学校が終わってからの子供たちを忙しくしてしまった。(今や子供たちはテレビを見る時間も無いぐらいだ。テレビからの情報というのも重要なのに)
原因を探る場合、何をやったかではなく、何が無くなっているのかが重要であることも多いのだ。
 現在、大手の塾でも理科の実験教室を始めるところが多い。そこではかつての学研の理科の付録のようなものをつくっている。
ゆとりによる理科の技能の落ち方は本当にひどいものだった。
どこの塾でも理科を教えられる教師が不足している。
教師もまたゆとり世代であり、ゆとり以前の教育を受けた講師が不足しているのだ。
 話を元に戻そう。
学力を伸ばし、そして定着させるには、以下の3つのことが必要であると思える。
 

A
造形工作作業・手作業・創造作業・経験・実験

B
論理的でわかりやすい教え方
(図やイラスト・動画なども)

C
何回も訓練
(ドリル・宿題)
 
造形や工作作業・手作業・創造作業・経験・実験を積んだ子供は地頭が良くなる。
ここで勘違いしてはならないのは、「幼少期や小学校低学年がAが重要で、中学年以降はAは不要でCだけで充分ということではない。」ということだ。
幼少期から小学校・中学校ぐらいまでも通じてずっと、ACも同じように重要であるということだ。
よく工作やお絵かきは低学年までの右脳教育と勝手に決め付けて、高学年以降は受験勉強一色という人がいるが、そうではない。
AB Cは、つねに連動しており、Aは低学年までで充分などということはない。
 
右脳・イメージ化・算数脳
 また、2013216日のプレジデントファミリーという雑誌に「算数が得意な子の脳は、どこが違うのか?」という記事があった。
「スラスラと問題が解ける子の脳の中は、いつまでたっても答えが出ない子とどう違うのか。「解ける子の脳」になるための秘訣を、脳のスペシャリストに聞いた。」というものだ。
ここに書かれていることでおもしろいと思ったのは、算数を解くためには、計算するためだけの脳の場所を使っているのではなく、脳の複数の部分を使っており、訓練によってその回路をつくっているということだった。
 算数・数学ができるというのは、算数・数学的な頭脳が発達しているわけではないのである。
さまざまな経験と頭の場所を駆使して回路を構築しているらしいのだ。
ちょっと、気になったのは以下の部分の記事である。
「たとえば国語が得意なら、言語や感情をつかさどる部分、美術が得意なら視覚をつかさどる部分を主に使う、というようにある程度特定できるが、算数や数学の場合は、そうではないらしい。」
これは明らかに間違いであり、美術の場合も算数と同様、美術が得意な人間は視覚だけが発達しているわけではない。
美術は平面認識、空間認識、経験値、創造力、表現力・発想力などの様々なものを駆使して制作をするものである。
その他、問題解決能力やら根性やら色々必要となる。
 しかし、確かに算数を教えているときに思うのは、スカラー値である数量を図像やイラストとしてイメージ化して教えてあげると、子供たちののみ込みが早いと感じる。
すなわち、右脳を使用してイメージ化できると、論理的思考を伴う算数や数学の学力も伸びるということだと思う。
もちろん、文章から場面をイメージ化する能力を伴う国語もそうであるし、理科や社会は画像を伴う方がわかりやすいのは当然である。
数字・文字をいかに右脳で画像に落とし込むことができ、そこから論理性を導くことができるかが重要なのではないか。
それには、造形工作や実験などの実生活での経験値と、脳と連動している手作業、それに発想力や創造性を育むことが必要なのではないかと考える。
 
手と脳
 2005年くらいのことどったろうか。ある仕入先からあるデータを紹介された。
生涯学習と脳の作用(ボケについて)についての調査で、確か学研が調査したものだったと思う。
それによると、手芸、切り絵、はり絵などの手づくり分野を趣味とする人は、脳を活発に使用しており、ボケになりにくいというデータだった。
以外にも、パソコンによるゲームは、脳は使っているものの、脳のある部分しか使用しないので、あまり効果は見られないとのことだった。
手づくりと脳は関連するのだ。
 先ほどのプレジデントファミリーの算数脳の記事にもこう書いてある。
 
頭の中だけで考えても答えが出ないなら……
「それは、手を使うことです」
 答えがわからないときは、脳のどこを使えばいいか迷っている状態。その際に、頭の中だけで考えるより、指を折って数えたり、図に描いたり、式に起こしたりすることが大事だという。
「解けないときには、思考が脳の同じ箇所だけをグルグルと回っていることもあります。そのときに手を動かせば、思考を違う箇所に動かすことができるのです」
 算数ができる子は、わかっていることをすべて書き込んだり、文章を図示化したりする。これは、脳にも刺激を与えているというわけだ。
 
最後に、算数で育まれる力について一言。
「人間は生まれると『周りの人はこうしている』とまず他人を認識し、その後だんだん『自分はどうなのか』と、自分を確かめるようになります。算数で一番育まれるのは、前頭葉で発達するこの自己認識能力だと思います」
 算数には必ず答えがある。問題を間違えた場合、自分がどこで誤ったかというプロセスを計算式の中で確認できる。それを認められる子は、どんどん成長していける。
「答えが間違ったという事実だけを意識する子は、それ以上先へ進めません」
算数を解く能力にも、手を使うことが有効なのである。
であれば、手作業を伴う図工・美術は、やはり算数に一役買っていることになる。

図工・美術の才能がある子は5教科もできる。では、図工・美術の才能を伸ばすと5教科も伸びるのか?

成績の上位の子がすべて図工・美術のできる子というわけではない。
しかし、私の経験上、図工・美術のできる子(美術部の生徒とか)は、だいたい成績の上位の子が多い。
ただし、美術部に在籍している生徒は、必ずしも美術が得意とか好きというわけではない。
体育が苦手で他に入る部活が無く在籍している場合もあるからだ。
 成績の上位の子が体育のできる子にはなっていない。
また、体育のできる子が成績が良いわけでもない。
体育(運動能力)と学習成績の間には、何の相関関係も見受けられない。
つまり、図工・美術のできる子は、だいたい成績の上位の子が多いということは、言えるのだ。
 さて、ここで基本的な疑問が出てくる。
「図工・美術が得意な子どもは、経済的に良い家柄の子どもだから、図工・美術も勉強もできるのではないか?」
「図工・美術が得意な子は、他教科の成績が良いのかもしれないが、では、図工・美術の能力を上げると、他の教科の成績も良くなるのか?」(逆はありえるのか?)

 答は、「ありえる。」のである。
この件については、私も逆が真であるかどうかよくわからなかった。
 しかし、この答については、私が家庭教師で指導している算数と図工の苦手な当時小学校4年生のa子が教えてくれた。
画像と脳(手や指先で「つくる」ことの重要性)

さて、数学の特に文章題などを解く場合、頭の中に絵が描けるかどうかが重要になってくる。

これは、右脳の仕事である。
私はかつて、算数の問題を教えるときに、「絵が上手に描かけなくても良いから、頭の中に書くことができればいいんだよ。」と教えていた。
ところが、ある小学校4年生のaは、「先生が紙に絵を書いてくれるとひらめくのだけど、自分では頭の中に描けないんだ。」と言うのである。
その子は、絵があまり得意な子ではなかった。
手でできないことは、頭に描けないのか?
そのとき、あることを思い出した。
そろばんの得意な子は、そろばんが無くとも指先だけで(つまりエアそろばんで)計算することができる。
さらに上手になると、指先も使わず、頭の中にそろばんを描いて計算する。
「じゃあ、そろばんはいらないではないか。」とおっしゃるかもしれない。
そう、そろばんを手先で経験することを積み上げれば、経験したイメージを頭の中に描けるのだ。
けれども、指先でそろばんを経験したことの無い人、あまり得意ではない人にとっては、頭の中にそろばんで計算するイメージを描くことはできないのである。
つまり、人間の脳というのは、手で経験してはじめて動くのだ。
頭でイメージして手を動かすのではないのだ。
人間は、二足歩行になって、手が自由になったことで、その手を利用することで、頭が発達したのだ。
頭が発達したから手を使っているのではないのだ。
よく、有名な塾の講師も「考えるより手を動かせ。」と言っているのを耳にする。
これは、私も全くその通りだと思う。
数学の文章題や国語の長文を解くときは、読んでから解きはじめてはダメだ。
読みながら、図やメモを書いていくのだ。
 さて、右脳を発達させるのには、手先を使って何かをつくることが非常に有効である。
幼児教育、有名私立小学校の受験でも、試験内容の大半は、この右脳領域にかかわる創造的分野が行われている。
私も小さいときは、プラモデルや模型飛行機を毎日のようにつくっていた。
また、絵もよく描いた。
手芸的な細かい作業をすることも脳に良いという結果が出ているようだ。
とにかく、脳のために、手を使って何かつくることが有効になのである。


珠算の問題点

小学校の時から珠算教室に通い、珠算および暗算が得意だった子には言いにくいのだが…

珠算・暗算のできる生徒ほど、中学2年生頃からの方程式の文章問題や関数の座標問題、さらには図形の問題が目に見えて苦手になる。
本来、図に書いて図像化しなければならないことが頭に浮かびにくくなっており、頭にはそろばんの玉のイメージしか浮かばなくなっているからだ。
だから、珠算および暗算が得意だった子は、それだけ数学はハンデを背負うことになる。
つまり、中学校以降の数学を伸ばすためには、珠算をやるよりも、美術・工芸・図画・工作・模型・手芸などの造形作業をやった方が効果があるということになる。

楽器を弾くことの重要性

手先と脳は連動している。

楽器を弾くということは、脳内のシナプスを活性かせせるのに有効だそうだ。
演奏するということも、目で見る・指を使う・耳で確かめる・脳、というように五感をフル活動させている。
考えてみれば、私も受験のときは、ギターを片手に置いて弾きながら勉強していた。

 つまり、上述のように、手で描いたり、何かをつくったりすることを通し、体で経験したことが無ければ、頭の中にそれをイメージすることはできないのである。
ここにこそ、美術科・技術科・家庭科・音楽科といった実技教科の重要な役割があるのである。
もしも、これをやること無しに、「頭だけで考えろ(脳みそだけ鍛えろ)」とすると、学力は大幅に下がることになるであろう。

では、画家は天才なのか?

 このように書いてくると、「じゃ、絵を描いているイラストレーターとかのクリエイターは、そんなに頭が良いのか?」「彼らはそんなに頭脳が明晰なのか」という疑問が出てくるだろう。
絵を書いている人が皆、東大とかの偏差値上位の大学に進学しているかというとそういうわけではない。
演劇をやっている人が皆、東大とかの偏差値上位の大学に進学しているかというとそういうわけではない。
なぜか?
彼らは、学問とか知識とかの方向に行きたいわけではなく、表現・創造の方へ行きたかったからだ。
それに対する価値観が、彼らにとっては、学歴・学業や偏差値よりも上回っているからだ。
人は、何に対しても中毒というものがありうるのだ。
 では、「中毒」とは何か?
そのことが好きすぎて、何よりもそのことを優先してしまうこと。
そして、それから離れることができなくたること。
 例えば、アニメ、漫画、タバコ、ドラッグ、塩、酒、スイーツ、異性、恋愛、性行為、自慰行為、美術、音楽、演劇、釣り、野球、サッカー…
趣味、嗜好、スポーツ、娯楽、何でも中毒になりうるのだ。
バランスが取れていれば良いのだが、中毒化して何にもましてそれを優先してしまうようになると、他への影響を及ぼす。
サッカーが好きすぎて勉強をおろそかにするとかも一種のサッカー中毒だ。

美術教師の方々へ(上記の現実と図工・美術教師および図工・美術教育とのズレ)
 図工・美術教師の方々がよく言う美術教育の必要性というものは、主として生きていく上での感性や表現力の必要性についてであり、これは図工・美術教育側からとらえられた見解でしかない。(感性教育・表現教育・徳育とか)
 実際に、ここ(美術教育の世界)を出て主要教科と言われている方を教えてみると、造形・図工・美術・手づくりというものがいかに算数や理科に役立っていたかということを身にしみて実感した。(算数の展開図などはその最たるもの)
 だから、図工・美術教師の方々はもっと胸を張って良いと思う。
図工・美術は受験の対極にあるのではなく、(それどころか)学力アップのために一役も二役も買っているのであり、図工・美術は算数・数学や国語などの他教科のためにも極めて必要な教科であることを認識すべきだ。
 もちろん、感性・表現・創造性というものも図工科・美術科の持つ重要な役割だ。
しかし、良く美術教師が口にされることには、「細かく描くな」「説明になるな」というものがある。
図工・美術教師および美術界の風潮として「細かく描く=悪」「大きくとらえること=善」、「ちまちま描く=悪」「ダイナミック=善」というものがあると思う。
前述のように、細かく描くという作業は、他教科にとっては結構有益な作業になるである。
 ここには、図工・美術教師の考えている図工・美術科の目的や身につける能力というものと、現実に図工・美術科の内在している能力や目的にズレがあると思う。
図工・美術科は、芸術家を育てることを目的としている教科ではないので、図工・美術教師は、このことを再考すべきであると考える。

マルチな教科など存在しない

しかし、図工・美術は他教科に必要な能力を育むが、図工・美術もまたマルチな教科なのではない。
同じように、算数だけしっかりやっていれば算数が伸びるわけでもない。
この教科さえ重点的にやれば良いというマルチな教科など無いのだ。
 右脳を鍛えて学力を伸ばす。右脳を利用することでわかりやすく教える。
たいていの子供には有効なのだが、全員がこのメソッドで学力が伸びるわけではない。
中には、左脳の方が右脳よりも発達している子供もいる。
というか、右脳と左脳の発達に偏りがあり、右脳の発達が遅れている子供もいる。
この子供は、この右脳の遅れを補完するためか、左脳の計算能力が非常に早い。
ところが、画像やイラストで説明しようとすると、混乱をきたし、拒否反応を起こす。
通常の子供の逆である。
画像や立体をいやがるので、どうしてよいかわからなくなる。(解決策はいまだわからない)
 しかし、考えてみた、私も体育だけはだめだったし、好きではなかった。(今も体を動かすのは嫌いだ)
人は万能ではないし、それぞれ苦手な分野はあるものだ。
 図工・美術という教科もマルチなわけではないのだ。
 
国語を解くためには、他の様々な教科が必要だ。
算数を解くためには、他の様々な教科が必要だ。
理科を解くためには、他の様々な教科が必要だ。
社会を解くためには、他の様々な教科が必要だ。
図工・美術の能力を上げるには、他の様々な教科が必要だ。
音楽の能力を上げるには、他の様々な教科が必要だ。
技術・家庭の能力を上げるには、他の様々な教科が必要だ。
 
マルチな教科など存在しない。
不要な教科も存在しない。
それぞれが補完しあっているのだ。
 
これを思うに、私立高校および私立大学の入試が、2科目、3科目で良いなどと言うのはとんでもない話だと思う。
数学や英語のみをもってその人間の学力をはかろうなどと言うのは、人間の驕りでしかない。
 
増やして欲しいのは図工・美術科の時間数だけではない。
全ての教科について、1970年代のレベルまで増やすことを切望するものである。

来るべき近未来
 20141110日、アメリカのオズボーン氏が10年後に消える職業・生き残る職業について発表した。
それによると、単純作業、事務的な仕事、営業的な仕事などは、全てロボットにとって変わられ、生き残るのは、高次元なクリエイティブな仕事だけだという衝撃的な発表がなされた。
となれば、今後はクリエイティブな仕事ができる人間の育成をまず考えなければいけないことは必至である。
芸術、科学、プログラム的仕事で活躍できる人間を育てることを優先しなければ、日本は世界の第一線では立ち行かなくなるであろう。
 とりわけ、日本のゆとり教育時代においては、理科の実験とか創造的教科の時間を省いてきた経緯がある。
前述のように「効率主義」によるものである。
しかし、今後の日本はこれらの教科にこそ力を入れることが急務になる。

場合によっては、例によって、日本はまた欧米の後手になる可能性もある。
欧米がクリエイティブな教育に着手した後に、日本も遅まきながらそれを行うときには、すでに世界の体制は決まっており、日本人は正確な事務処理のみが得意で使い物にならない人材ばかりになっているかもしれないのだ。
 もうおわかりだろう。
もはや「図工・美術教育が必要かどうか」などという議論をしている場合でさえないのだ。
クリエイティブな教科こそ、今後は増やすことが今の日本には急務なのである。

空想を語るヒト・現実を生きるサル

 最近、「空想を語るヒト・現実を生きるサル」という本が発刊された。
まだ読んではいないが、ヒトとチンパンジーのDNA98%同じで、ヒトとサルを隔てている唯一のものは、空想力だというのだ。
そして、人は他の動物と違い、一つ未来を想像することで死の概念が生まれ、そこから宗教も生まれるというような内容だとのことだ。
 私はこの本の題名だけ読んだだけで、ピンとくるものがあった。
人間は、確かに動物と違って「空想」というものをする。
空想とは、イメージ力であり、なぜイメージできるかといえば、シミュレートする力があるからだ。
シミュレートする為には、ある程度のキャッシュ容量が無ければならない。
 国語の読解力とはすなわち、暗号化された言語というものを解凍し、頭の中に場面を映像としてイメージすることだ。

数学の文章問題の解決方法も図像化する力、つまりはイメージ力であり、これには美術的な空間力・平面力が使用される。
イメージ力・想像力・創造力・シミュレート力というものが、ヒトが他の動物と一線を隔す能力であるのだ。
であるならば、これを育てることこそ最も重要なのではないか。
ちなみに、脳内の働きの領域図では、視覚とか聴覚とか運動の領域が書いてあるが、視覚=美術の能力ということではないし、聴覚=音楽の能力というように短絡的に考えてはいけない。
脳の領域における視覚というのは、単に視覚をつかさどる部分という意味でしかない。
美術的能力、すなわち脳の様々な部位を連絡することで、高度にイメージしたり、シミュレートしたり、創造したり、表現したりするのは、いまだよく解明されていないのだ。

最後に
「なぜ図工・美術という教科が必要なのか」の疑問を探す旅。
長い旅だったが、めぐりめぐって図工科・美術科の必要性にたどり着いた。
 
ところで、私の人生はぶれていた。
冒頭の「なぜ絵を描くのか?」「自分が描きたいことは何なのか?」「絵を描く意義は何なのか?」「絵画は本当に人類に必要なことなのか?」という問いについてであるが、今、他の各界で活躍している有名人を見て思うのだ。
成功している人たちは、小さいときから目標がぶれていず、それをやりたいという強い欲求があり、「ただ単にやりたいからやっている」のだと。
私も「描きたいものがあればあるから描く」「絵を描く異議など無いく、ただ描きたいという欲求だけ」でよかったのだ。
あれこれ考えるのは、描く意志が弱かったのだ。
また、美大に行きたいのであれば、自分で働きながらででも、親の反対を押し切って受験すべきだったのだ。
それをしていないのは、本当はそんな強い夢では無かったのだと。
また、芸術至上主義という偏りを持っているからこそ、私は美大に入るべき人間ではなかったのでなかろうか。
 ぶれていたから、結果として色々な職業を点々とし、奇異な人生を歩むことになった。
とは言え、それらの職業は、全て教育という分野ではくくられている。
しかし、色々な職を経験したが、常に考えていたのは、このテーマである「なぜ図工・美術という教科が必要なのか」という問いだった。
もしかするとこの問いに対する答を見つけるために複数の職を経たのかもしれない。
 にもかかわらず、今現在やりたいことは、まだまだたくさんある。



2:図工・美術科と他教科との相互影響関係とは?


国語・英語

その教科を伸ばすために基本的に必要だったこと その教科で伸びる能力 その教科を伸ばすためにさらに必要なこと 他教科への有効性・関連性
●文章を読む力
●話す力
●話を聞く力
●書く力
●読んで場面を画像にイメージする力
●読んで書いてあることを構造として読み取る力
論理的に話を組み立てて説明する力
●人の考えや想いを読み取る力
●自分の考えや想いを言葉や文章として表現する力
●漢字力・熟語力
●語彙力
●読書量
●作文量
●語彙暗記力(こじつけ力・根性)
●英語(発問の文章読解能力)
●数学(発問の文章読解能力)
●理科(発問の文章読解能力)
●社会(発問の文章読解能力・歴史的語句の漢字読解・漢字の変遷・アルファベッド字の変遷)
●美術(読書感想画・挿絵)
●音楽(詩と音の相互関連)

数学

その教科を伸ばすために基本的に必要だったこと その教科で伸びる能力 その教科を伸ばすためにさらに必要なこと 他教科への有効性・関連性
●折り紙
●積み木
●工作
●模型
●絵画
●買い物
●理屈
●計算能力
●法則に沿って答を導く能力
●論理力
●図像化する力
●平面把握能力
●空間把握能力
●画像イメージ力・図像化力
●平面把握能力
●空間把握能力
●公式の暗記
●問題を解く訓練
●暗算をしないこと
●美術(文章問題のイメージ力・空間把握・立体把握)
●音楽(楽譜のデジタル性・音と振動・等比級数と平均律)
●理科(力学・地震・電気などの計算)
●社会(十進法・60進法・ゼロの発明・フランス革命とメートル法)

理科

その教科を伸ばすために基本的に必要だったこと その教科で伸びる能力 その教科を伸ばすためにさらに必要なこと 他教科への有効性・関連性
●身のまわりの物や事柄への好奇心(疑問力)
●家事
●楽器の演奏
●おもちゃ
●工作
●模型
●論理力(因果関係)
●身のまわりから法則性を発見する力
●学習漫画を読むこと
●暗記力(こじつけ力・根性)
●数学(力学・地震・電気などの計算)
●音楽(音と振動)
●社会(経度と時差・回帰線・白夜・地球球体説・地動説の発見理論・蒸気機関と産業革命)
●美術(観察画・絵具の化学・印象派とスペクトル理論)

社会

その教科を伸ばすために基本的に必要だったこと その教科で伸びる能力 その教科を伸ばすためにさらに必要なこと 他教科への有効性・関連性
●身のまわりの人や出来事や土地への好奇心(疑問力)
●論理力(因果関係)
●学習漫画を読むこと
●歴史映画・歴史ドラマの鑑賞
●暗記力(こじつけ力・根性)
●理科(経度と時差・回帰線・白夜・地球球体説・地動説の発見理論・蒸気機関と産業革命)
●音楽(バロックと絶対王政・古典派と市民革命・ワルツと鹿鳴館・その他各時代の音楽)
●美術(ルネサンス・絶対王政と宮廷画家・市民革命とサロン・浮世絵と印象派・その他各時代の美術)
●国語(各時代の文学)

美術

その教科を伸ばすために基本的に必要だったこと その教科で伸びる能力 その教科を伸ばすためにさらに必要なこと 他教科への有効性・関連性
●折り紙
●積み木
●工作
●模型
●絵画
※別途参照
●見る力・観察力
●数学(文章問題のイメージ力・空間把握・立体把握)
●理科(観察画・絵具の化学・印象派とスペクトル理論)
●社会(ルネサンス・絶対王政と宮廷画家・市民革命とサロン・浮世絵と印象派・その他各時代の美術)
●国語(読書感想画・挿絵)
●音楽(民族楽器の制作・CDジャケットのデザイン)
●指先と脳の関係

音楽

その教科を伸ばすために基本的に必要だったこと その教科で伸びる能力 その教科を伸ばすためにさらに必要なこと 他教科への有効性・関連性
●楽器の演奏
●歌をうたう


●数学(楽譜のデジタル性・音と振動・等比級数と平均律)
●国語(詩と音の相互関連)
●社会(バロックと絶対王政・古典派と市民革命・ワルツと鹿鳴館・その他各時代の音楽)
●理科(音と振動)
●指先と脳の関係



3:図工・美術の授業時数はなぜ減らされるのか?


「副教材」という言い回しは間違い

 美術・音楽・技術・家庭・体育の技能教科をよく「副教科」という人がいるが、「副教科」などという言い方は存在しない。
学習指導要領にも教育基本法にもそのような表現は出てこない。
逆に、国語・数学・社会・理科・英語の教科を「主要五教科」などという人がいるが、これについても、このような表現は存在していないし、「主要」教科ではない。(学校現場において、主要教科とか副教科という言い回しは差別表現にあたる)
このような言い方をする人がいるために、技能教科があたかも国語・数学・社会・理科・英語よりも低い(主要でない=要らない)価値観で見られるようになっているのは間違いないであろう。
学校現場でこのような表現をすることはないし、これは差別表現に当たるので、おそらくは塾とか予備校の教師から出た言葉と思われる。
 受験関係者から見ると、彼らにとっては筆記試験の点数アップが目的である為に、筆記試験の無い教科は軽視する傾向が出てくるのであろう。
しかしながら、ご存知のように高校入試において、全国どの都道府県であっても、技能教科の内申は筆記試験のある五教科よりもアップされて加算される。
 実は、ずっと昔は、高校入試は九教科行われていたと聞いた。
しかし、技能教科の場合、全ての実技部門を試験するのは物理的に無理である。
よって、現在では、実技教科以外は当日筆記試験もあり、試験日に試験が不可能な実技系教科については、試験ができない分、内申をアップさせてバランスを取っているのである。
結果的に、全教科の成績が受験する高校へ報告されるのである。

●なぜ、図工・美術の授業時数は増えないのか?
まず、逆に考えてみよう。
 なぜ、図工・美術の授業時数は減らされていくのか?」
 子供たちの多くは、この教科が好きである。
算数や国語よりも好きと答える子供が多いことは、アンケート結果でも明らかである。
だから、図工・美術の授業時数が減るのは、子供たちに原因があるのではない。
 
 中には、絵が下手できらいになる子供もいる。
しかし、私の知る限り、日本のほとんどの図工・美術教師は、子供たちの先天的なスキルではなく、頑張り度評価を行い、子供の個性を認め、そして何よりも図工・美術を嫌いになる子供を出さないように頑張っている人ばかりだ。
だから、図工・美術の授業時数が減るのは、先生に問題があるのでもない。
 
●原因は、大人にある。
 もちろん、大人になっても、ものをつくることが好きな人は多い。
いや、図工・美術が好きだった子供たちが、大人になったからといって図工・美術が嫌いになっているわけではない。
むしろ、大人になっても好きなのである。
 
 しかし、そのような大人であっても、いざ、自分の子供が「美術の大学に進みたい」とか「芸術家」になりたいと言ったらどうだろう。
未だに、これを認めたがらない大人が多い。
画材業界や美術教材にかかわる業界で働いているお父さんにも改めて問いたい。(この業界の人たちも、美術の授業を増やしたいと思っている人たちであるからだ)
もしも、あなたの子供が「美術の大学に進みたい」とか「芸術家」になりたいと言ったら、あなたはそれを快諾するでしょうか?

これこそが、図工・美術の授業時数は減らされていく最大の原因である。
もう一度言おう。
なぜ、図工・美術の授業時数は減らされていくのか?
 
 大人が、芸術というものが算数や国語などよりも進学・就職・立身出世に役立たないと考えているからに他ならないからだ。
「芸術で身を立てることの方が難しい。うちの子供にその才能は無い。だから人生を棒に振っては困る。」そのように親は考えるからだ。
大人たちが、図工・美術がスキルアップしても「食べていけない」と思っているからだ。
「図工・美術の才能があっても、いい大学や大企業に就職できない=より多くの安定した収入を得ることにはつながらない。」そのように親は認識しているからだ。
一般大衆は、芸術的教科が、将来のわが子にとって「生産的ではない教科」とみなされているのだ。

ここで言う「生産性」とは、将来における、給与・年収・立身・出世・地位・名誉に他ならない。
 
結果として、以下のようなことが現実におきていることからもわかるだろう。

◎野球部やサッカー部ではなく、美術部に入った子供の親から、顧問に対して、「なぜうちの子供は美術部なんかに入ったんでしょう?」との質問とも苦言とも言うべき言葉があびせられる。
◎担任が数学や英語教師ではなく、美術教師だった場合、子供の成績に不安を持つ保護者が多い。
◎男性が美大に行きたいと父親に言うと反対されるが、女性の場合はそうでもない。
結果として、特に地方のこのような志を持つ男性は、地元の教育学部美術科に進学し、美術教師になる者が多い。
そして、美大は女性の比率がどんどん増えている。(教育学部もそうだが)
※私の知っている先生は、親が建具師だったが、跡を継ぐと偽って美大の日本画科に進学した。
 
●しかし、待って欲しい。
 図工・美術の授業というものは、何も美術のスキルをアップしたり、芸術で身を立てる子供を育てることを目標とはしていない。
手の器用な子供を育てたり、有名な画家を輩出するために図工・美術の授業が行われているわけでもない。
もちろん、図工・美術教師も、そのような子供を育てるために図工・美術の授業を行っているわけではない。
もちろん、学習指導要領にも、そのようなことは一言だって書いてないのだ。
 
図工・美術の授業は、図工・美術を通して、人として生きてくための人間性を育てるために行われているのだ。
 
●しかし、ここで学習指導要領を紐解いて難しい目標を解説したところで、図工・美術を増やすための大人たちへの説明にはなりえない。
これもまた、図工・美術の授業の増えない原因にもなっていると考える。
 
日本国中の図工・美術教師たちは、様々な研究大会や文献等で、ことあるごとに図工・美術の必要性を訴えている。
それは十分に理解している。
しかし、それが世間の一般大衆の大人に伝わっていないのだ。
それは、教師の解く図工・美術のメリット・効果が一般大衆のメリットになりえていない(メリットであると理解されていない)からである。

図工・美術教師たちは、以下の言葉をよく口にする。
「感性を育む」「表現力を養う」「創造性を養う」「美しいものを美しいと言える力を育てる」など
これらは、全て観念的なものであり、一般大衆から見れば、「そんなものを育てて何になる」「もっと社会に出て役に立つスキルを育てろ」で終わりである。
だから、図工・美術の授業など必要ないと思われてしまうのだ。
一般大衆が欲しているスキルはもっと違うところになるのだ。

●なぜ図工・美術教育が必要なのか(1)
 ファインアートも公募展も現代社会の市民生活からかけはなれたところへ行ってしまった。仮に、このようなものがなくても我々の生活には、いっこうに影響はない。
しかし、ファインアートがもはや死に体であるからといって、学校における図工・美術教育が必要でないということにはならない。ファインアートは、美術のほんの一分野でしかないのだから。
 そもそも、世の中の、身の回りにあるものを見て見るがよい。服、建築、内装、外装、食器、電化製品、文具、缶コーヒーのパッケージ、髪形、化粧品、化粧、おもちゃ、コマーシャル、標識、交通機関、自動車、すべてが人間によってデザインされており、それは、機械もしくは人間の手でつくられたものである(別紙「教材論」参照)。そうでないものといえば、山や川、木などであるが、これは自然がデザインし、作り出した芸術品である。これらのものとデザインは、我々の生活とは切っても切れない身近なものであるのに、なぜに学校の美術教育においては、生活とは縁遠い額縁の中の絵とか彫刻にこだわるのであろうか。
人間による「造形」は、打製石器から磨製石器に移行したときから開始された。
 人間の生活を取り囲む「もの」は、大別すると「伝えるもの」と「使うもの」と「飾るもの」に分かれる。「伝えるもの」は、広告、コマーシャル、看板、パッケージデザイン、ポスター、CDジャケット、ホームページデザインなどである。「使うものは」、その使用目的により、文具、サニタリーグッズ、ファッション、寝具、交通機関、環境デザインなどの衣食住をはじめとするありとあらゆる分野にわたる。「飾るもの」は「何かを飾るために使用するもの」(アクセサリーとかキーホルダーとか額縁、化粧、入れ墨など)と「飾るために飾るもの」つまり「純粋に鑑賞するためだけのもの(ファインアート)」とに分かれる。そして、何度も言うようだが、これらすべてのものが人間によってデザインされたものである。いかに、ファインアートがほんの一領域でしかないのかがおわかりいただけたと思う。
 我々は、本当はArtに囲まれて生活しているのだ。ファインアートだけがアートではない。
 現代生活がデザインされているものにあふれており、切っても切れない関係であり、どこかにそれをデザインしたりつくっている人達が(日本では16万人も)いる。だからこそ美術教育が必要なのである。難しい理論は必要ないのである。だから、ファインアートに走りすぎる教育は、美術教育不要論を助長するのだ。

●なぜ図工・美術教育が必要なのか(2)
 人間の造形活動は、約1万年前にクロマニョン人が現われてからであり、造形するということは、我々人類の根源的な能力だと書いたが、であるからこそ、この芸術教育は、学校教育において、必要欠くべからざる、伸ばしていかねばならない領域なのだ。
この根源的な「ホモ・サピエンスとしての欲求」を伴う能力が失われ、絶えることは、我々人類の存在そのものを否定することであり、人類を滅亡に導くものである。
 しかしながら、我々は、科学万能の環境の中で、それが如何に大切な能力であるかが見えなくなってきている。
石器時代の生活と対比させて考えてみよう。衣・食・住の衣に関していえば、デパートや衣料品店で買うことができ、自分で縫ったり編んだりしなくてもよい。食に関していえば、コンビニで簡単に買うことができ、自分で料理をつくらなくてもよい。住に関していえば、建て売り住宅を買えばすみ、自分で家を造らなくてもよい。
しかし、これは怖いことでもある。文明の発達(文化とは違う。文明は発達するが、文化とは変化するものである)は、ときとして、人間から衣食住の能力やものを造る能力と物を造り出したり工夫したりするを奪うからだ。
先の阪神大震災が、なぜあれほどまでに甚大な被害を生んだかというと(防災対策とか、国の対応とか色々と言われているが)、地震が発生した上に文明があったからと言うこともできよう。考えてみたら、もしも、そこに何もなく自然だけがあったら、もしも、そこに石器時代の集落があったら、もしも、そこに江戸時代の村があったら、とか色々と考えてみるとよい。文明が発達にするにつれて、自然の脅威による被害は、大きくなっていく。阪神大震災も、ガス管の破裂や電気のストップによる被害がほとんどであった。また、コンクリートの大きなビルほど、一度破損したら、その修理に手惑ってしまう。
このような、状況に陥った場合、その災害発生後の人間の生活能力は、現代人のほうが石器時代人に比べて、はるかに劣る。
しかし、地球は、微妙な環境のバランスの上に現在の状況を維持しており、地震や集中豪雨のみならず、二酸化単素の増加、オゾンホール、ポールシフト、小惑星衝突などがいつ起こってもおかしくない状況にある。
 また、博物館に行って見てみるとよい、石器、青銅器、鉄器と見ていくと、石器はほとんど変化していず当時そのままだが、鉄器は腐食が激しい。古代の方が現代のものよりも堅牢なのである。
 もはや、我々の通常の生活は、ガスや電気をはじめとする科学文明なしでは、生活できない。科学の発展といっても、本来、それは、論理的思考のみによって生み出されたものではないのだ。そのバックグラウンドには、ものを造り出す能力、工夫する能力、アレンジする能力、豊かな発想力などがあったのだ。
つまり、これこそが、1万年前の道具や火や文字を考え出してきた、人間のもつ根源的な能力であり、この能力、現在の学校教育の領域においては、その結果と論理的思考のみを教える自然科学と社会科学では教えていないのであり、ものを造り出す能力、工夫する能力、アレンジする能力、豊かな発想力などは、まさに、芸術、技能領域が、その能力養成を請け負っているのである。
国家としては、目に見える結果と事実(成果)を教えるだけでよい自然科学と社会科学が、一見、人間の能力を高めて、国と社会を発展させるように思えるのだろうが、実は、そのベースには、美術や音楽家などの技能教科で養うべき領域が支えていたのだ。
これは、科学よりも芸術の出現のほうが早かったことを考えてもよくわかる。
また、自然科学と社会科学は、文明の領域であり、文明とは、発展するものである。これに対して、芸術(もちろん文学も含む)は、文化の領域である(本来は、スポーツも文化)。文化とは、発展するものではなく、変化したり、違う文化どうしが混じり合ったりするものである。発展し続ける文明領域である自然科学や社会科学の方が発展しない文化よりも重要に思えるのだろう。だから、国家としては、よけいに芸術分野よりも理数系を重要視する傾向があるのだろう。
 人間の根源的生活能力や技能も科学も両方必要であり、重要なのである。
 芸術教育をはじめ、農、工などに関する技術科、家庭科などの技能教科を学校で教えないことは、人間の根本的な能力を伸ばさないことになり、生きていく力が落ちることになる。芸術教科、技能教科を学校のカリキュラムから無くすなどとんでもない。それこそ、国が滅びる。しかし、芸術教科の内容も今のままではいけない。

●そもそも、なぜ芸術教育不要論が出てくるのか(芸術・効率主義)
そもそも、なぜ芸術教育不要論が出てくるのか?
以下に二つの重要な理由を挙げておく。

一つ目は、「効率主義」という幻想によるものだ。
これは私が家庭教師である家庭に行っているときのとこだが、
中学生の男子が定期テスト前に言った言葉で「これだけは大事というのはどれですか?」というのがある。
この子は、暗記もの(特に歴史)が苦手で、よくこのような言葉を口にする。
この子の頭の中は、おそらくいつも「とにかく、これさせやっておけば全てに通じるマルチな事柄は何なのか」ということを考えているように思える。
無駄なことを極力避けて、少ない労力で高い点数を取ろうとする、いわゆる「効率主義」である。(合理主義とは違う)
私は彼には一言、「全部大事!」と答えている。
勉強に効率主義は無い。
勉強に無駄なことは無い。
 このとき思ったことがある。
大人はいつも効率主義を説いている。
だから子どもも効率主義で考えるようになる。
美術や音楽が必要無いと考える大人もまた効率主義という幻想を抱いているからではないのか。
なるべく負荷の無い学習量で、なるべく高い学力をつけたいと考えるのだろう。
このような大人は、自分自身が(もしくは彼の親が)必要の無い教科はなるべく省いてきたのであろう。
テレビに良く出る某有名女医の母親は、家庭科や美術は専門家を雇って宿題をやらせていたというが、このようなことは、全く逆効果である。
考えてみてもわかるだろう。
私立大学よりも国公立大学の方が受験すべき教科は多いのに、国公立大学の点数は、昔からずっと私立よりも常に高いのだ。
多くの教科を勉強することは、労力の負荷が大きいはずなのに、なぜこのようになるのだろうか。
これはもともと国公立大学の受験生の頭が良いからなのではない。
多くの教科を勉強した方が相互関係によって学力がつくからだ。
このことを考えても、学ぶべき教科はなるべく多い方が効果的なのである。
教科における効率主義は、逆効果なのである。
美術・音楽を無駄だと断ずることは、逆に他教科の学力を落とすことにつながるのである。

二つ目は、「芸術教育」という言い回しだ。
美術・音楽は芸術ではあるけれども、美術科・音楽科は芸術教育ではないし、芸術家を育てる目的の教科でもない。
「芸術は自分に関係の無いもの」「芸術は生活に必要ないもの」という短絡的な考えからきていると思われるが、本当のところ、これも上の効率主義と同様「なるべくやりたくない。勉強する量を減らしたい」ということが本音であろうと思える。
「生きていく為に無駄」だと考えるのならば、ドッジボールもサッカーも必要ないし、体育で行っているサッカーは、サッカー選手を育てる目的で行われているのではない。
同じように、古文も漢文もそうだ。

 芸術=無用という考えがなぜ生まれるのか?
芸術・芸能・工芸・職人は、近世まで社会の中で下位の職業として見られてきた歴史がある。
おそらく、「芸術=無用」という考えの人は、自分が芸術的教科が不得意であったのか、またはこのような差別的認識を未だ持っている人である可能性が高い。
 では、同じく実技教科である体育やスポーツはなぜそう思われないのか?
以下は、この「図工・美術教育がなぜ必要なのか」という趣旨とは関係の無い内容だが、日本人の概念が世界のそれと大きくかけはなれていることなので、少々長くなるが、この場をお借りして説明しておきたい。

英語で「ゲームをして遊ぶ」は「play the game」であり、「テニスをする」は「play tennis」、「ピアノを弾く」は「play the piano」と中学校で習ったと思う。
ではなぜ、遊ぶ、演奏する、スポーツの試合をすることが同じ「play」を使うのだろうと思ったことは無いだろうか?
スポーツだけ違う感じがしなかったろうか?
 ここに日本人の大きな思い違いがあるからなのだ。
スポーツというものは、娯楽や遊びの一種であり、日本人の考えるような「精神論」とか「健康にするもの」とか「体と心を鍛える」とか「文化の反対に位置するもの」とか「「武」という意味は、微塵も無いのである。
それどころか、スポーツは文化の一つに位置しているのである。
オリンピックで、なぜ開会式や閉会式は、あんなに華やかなのか?
文化的祭典の一種だからである。
スポーツのアジア大会には、なぜチェスがあるのか?
試合を楽しむ娯楽の全てをスポーツと言うからだ。
また、「ジャンル」と「カテゴリー」という言葉の意味の違いだが、
「カテゴリー」というのは、全ての場合において使用できる「分類」を意味する。
しかし、「ジャンル」は、文化・芸術における分類を意味する。
具体的には、芸術・文化・学問・スポーツの内容である。
ここでも、スポーツが文化であることがわかれば、なぜスポーツがジャンルに摘要できるか意味がわかるだろう。
スポーツとカルチャーは、相反するものではなく、カルチャーの中の一つがスポーツなのである。
また、体育の反対は文化とか芸術なのではない。
上記のように、スポーツは娯楽の一種だが、「スポーツ」という言葉の意味には、「体を鍛える」「健康にする」という意味は無い。
体を鍛え、運動能力高めることは「アスレチック」であり、スポーツとは違う。
また、体育科は「フィジカル・エデュケイション(肉体の教育)」と呼び、「アスレチック」とも違う。
そもそも、保健体育は「健康な身体をつくる」のが目的の教科であり、体を鍛え、運動能力高めることではない。
ちなみに、健康は「ヘルス」であり、スポーツとかアスレチックとは意味が違うものだ。
これらのことは、日本人が「スポーツ」「アスレチック」「フィジカル・エデュケイション(肉体の教育)」をごっちゃにしていることからおきている。
であるから、もちろん「体育会系」と「文化会系」などという二元論的な分類も間違いなのである。

言葉の本当の意味と勘違い
スポーツ
運動・競技・(学校などの)運動会
競技会
娯楽・楽しみ
冗談・ふざけ・からかい
スポーツマン的な人;さっぱりした人,気性のよい人
 ((the ))物笑いの種,笑いぐさ;もてあそばれる物[人]
8はで好みの;賭博(とばく)師;(())遊び人.
 生物突然変異;変種
体育
physical education (P.E.)

体育館 a gymnasium; (()) a gym
体育大会 an athletic meet
体育の日 Health Sports Day
体づくり athletic
健康 health

スポーツ=体育 ではない
スポーツ=健康 とは関係ない
文化⇔体育 ではない

play:チェス・将棋・囲碁・モータースポーツなど、競技になるものはすべてスポーツという。

文武二元論もつくられた幻想である
 何かと「文武両道」という言葉を使いたがる大人がいる。
しかし、文武二元論もまたつくられた幻想である。

「文武両道」という言葉は、もともとは江戸時代の武士の身に着けるべきスキルとして、
文=学問
武=武士道
とされてきたのだ。
それが、武士のいなくなった明治以降は、
武=身体を鍛える=健康=体育=スポーツ
とされ、文の方はそのまま学問になった。
それで、日本人の概念としては、
文=勉強
武=体育
という二元論ができあがってしまったわけだ。
もちろん、これが誤った二元論であるべきことは、言うまでもない。

日本人の頭の中の変遷

文治派→
学問→
知育→
文化会系→
勉強・芸術

武闘派→
武士道(戦さ)→
体育→
体育会系→
部活・スポーツ

実際の国際的な概念
文化
民族性・風習・慣習・習慣
学問
芸術
スポーツ

●精神と肉体にも相関関係は無い
日本人には、「健全な精神は健全な肉体に宿る」と言って、「だから身体を鍛えれば精神も良くなる」といってスポーツを奨励する人が多い。
実は、この格言も間違いなのである。
この「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉は、もともとはギリシャのデルフォイの神託に述べられる詩の一説であり、「私の健全な精神が健全な肉体に宿りますように」というのが本来の言葉なのである。
健全な肉体をつくれば健全な精神が宿るなどといったことは、どこにも書いてないのだ。
 そもそも、もしも「健全な精神は健全な肉体に宿る」というのが真実であるならば、スポーツ選手は全員人格者であっても良いはずだ。(しかし、そうはならない。中には犯罪者も出るし、野球部内でのいじめや暴行事件もあるではないか)
 「健全な精神は健全な肉体に宿る」というのは、何事も精神論で述べたがる日本人がつくってきた幻想である。
「健全な精神は健全な肉体に宿るわけではない。」
「スポーツをやっていれば非行に走らなくなるわけでもない。」
ここには、何の相関関係も因果関係も存在しない。

図工・美術は、画家をつくる教科なのではない

 「図工・美術が要らない」という人の理屈として、「画家になりたいわけではないから必要ない。」とか「画家になる人はそんなにいない。」というのがある。

しかし、ちょっと待ってもらいたい。
そもそも、これまで述べてきたように、図工や美術というものは、何も画家を育てるためにあるわけではないのだ。(これは美大以降)
これまで述べてきた、生きていく為に有効な様々な能力を育てるためにあるのだ。
 同じように、音楽家を育てるために音楽の授業が設けられているわけではない。(これは音大以降)
同じように、数学者を育てる為に数学の授業が設けられているわけではない。
文学者を育てる為に国語をやっているわけではない。
中学・高校の授業のレベルでは、その目的が違うのだ。
 そもそも、日本に絵を売って生計を立てている画家は、すでに500名しかいない。
公募団体に出展している人のほとんどは、中学や高校の美術教師や趣味で絵を描いている人たちだ。
最初から画家になりたいと思っている人など、現在はいないであろう。
そんなことは百も承知なのだ。

●図工科・美術科の時間をどうすれば、増やしていけるのか?
というよりも、図工科・美術科という創造的・芸術的な教科というものは、上記の理由により、国語や数学、人文系、理数系の学習能力を高めるために、極めて有効な教科と言える。
すなわち、言葉を替えれば、図工科・美術科の増時間無くして、主要教科といわれている教科の能力アップにはつながらないとさえ言えるのである。
 以上のように、図工科・美術科という創造的教科というものは、人間がよりよく生きていく力を身につける上で、極めて重要な教科である。
この、極めて重要であるところの図工科・美術科を、学校教育において必須科目とすることはもちろん、授業時数を増やさなくてはならないと考える。
また、広く世間にもその重要性を知らしめるため、啓蒙していく必要があると考える。
そのための一助として、このサイトを立ち上げる。
 「某大手新聞社のアンケート調査によれば、図工は子供の好きな教科のナンバーワンである。
だから図工は大切な教科である。」という論理をぶつ人がよくいる。
これは、大きな間違いである。
しかも、そもそも論理が破綻している。
子供を育てる上で、それが大切な教科であるかどうかということと、その教科を子供がすきかどうかであることとは、全く関係が無い。
その教科の重要性というものは、子供が好きかどうかとは関係が無く、生きていく上で大切かどうかで判断されなければならない。
逆に言えば、子供が嫌いな教科は必要ないのかと言えば、もちろんそんなことはなく、嫌いであっても身に付けなくてはならないことはたくさんある。
 学校教育において、図工・美術の授業が必要な理由は、この教科が「人間が生きていく上で身に付けるべき数々の重要な能力を育むことのできる教科だから」である。
この「人間が生きていく上で身に付けるべき数々の重要な能力」については、前述の通りである。

重ねて言うが、図工・美術の授業は、子供が好きだからという理由で行われているわけでもないし、子供が好きだからという理由で行われるべきでもない。

このサイトが、全ての造形活動をしている人たち、全ての造形教育に携わっている人たち、学校教育における図工科・美術科の授業時数拡大の為に尽力している人たちの一助とならんことを願う。



4:図工・美術・造形活動に必要な能力とは?



バーチャル力
(自己仮想現実化能力)

創造活動をするために、
時前に必要となる力
(時前能力)

表現力(加工、アレンジ、編集)
&感性

●シミュレート力
●想像力
●自己転送能力
●バーチャル力の必要性
●イラストとバーチャルの関係
●強い目標達成願望
●分析力
●観察力、発見力
●集中力
●忍耐力、持久力
●記憶力、回想力
●挑戦する力、冒険する力
●独創性
●他への思いやり
●応用力
●表現力
●再現力
●構築力、編集力
●加工力、アレンジ力
●時間軸表現力
●演出力
●デッサン力
●感性


バーチャル力(自己仮想現実化能力)

 芸術活動、創造活動をする上で、これほどまでに重要なのに、今まで、全く体系化されず、教育の場でも見逃されてきたものはない。
バーチャル力とは、自己仮想現実化能力のことである。画面も音も出るモニターなどのバーチャル度の高い機械やメディアを使用せずに、バーチャル度の低いメディア、例えば、文章などのみの体験から、如何に自分の力だけで頭にバーチャルの世界を思い描くことができるかの能力を言う。
 バーチャル力には、「シミュレート力」「想像力」「自己転送力」の3種類がある。

シミュレート力
 例えば、「この色の部分をこの色に変更したらどうなるか」「この図案をこの技法で、この物体の上にデザインしたら、どのような完成品になるか」など、「シミュレート力」とは、下絵や使用する技法。色使いなどから、その完成予想を頭に思い浮かべつつ制作を進行させていくことのできる力である。
この力が小さいと、制作をする上で、制作者は、不安になる。制作した数が多く、経験が豊富な作者ほど、シミュレート力が大きく、図案の選択、加工表現などから、「完成した感じ」を予想し、当然途中のやり直しも少ない。
美術の授業で、木工芸品のデザイン(箱材や額)をデザインする場合、子供たちは、そのデザインのみに気を取られ、それをどのように彫り進めるのか、どのような色で仕上げるのか考えずに作業を進めている場合が多い。
完成予想をシミュレートしていないのである。
 理髪店や美容院などで、このシミュレート力のない人は、自分にはどんな髪型が似合うのかがわからず、(その髪型が自分に似合うかどうかわからないのに)芸能人やモデルの髪形の様にするように支持している。
また、服を買に行くときに、そのデザインが好きかどうかで選んでいる人が多いが、その服を着たときの自分をシミュレートしながら服を選んでいる人は少ない。
これは、いずれも、日本人にシミュレーション能力が養われていないからである。
この場合、自己を客観視できるか否かが大事である。
 シミュレート力には、2種類あり、一つは、前述の、作品を制作していく上でのシミュレーション能力。
そして、もう一つが、完成した作品が、その環境や使う人や使う人の生活にどう影響を与えるか(それが飾られたり、使用されたりしている場面が想像できるか)といった、作品と環境とのシミュレーション能力である。

想像力
 短い文章、詩、静止画、音楽などのバーチャル度の低いメディア(媒体)から、いかに高次元のバーチャルを思い浮かべることができるかという能力である。
それは、登場人物、その背景、人間関係、登場人物の人生、物語、音、音楽などを想像する能力である。また、童話を読んで、そのシーンを想像しているのもこれに当たる。
 今のプラモデルは、ほとんどが漫画やテレビや映画、そしてコンピューターゲームのキャラクターである。しかし、私の小さい頃は、テレビや映画とは全く関係のないキャラクターや乗り物(サンダーキャプテンなど)などのプラモデルが販売されていた。
そして、我々は、それを喜んでつくっていた。プラモデルの箱に描いてある絵から勝手にそのストーリーなどを創造して楽しんでいたのだ。
つまり、プラモデルを造ることも楽しいが、ストーリーを勝手に創造し、その世界の中に自分自身を置くことも楽しかったのだ。
小さい子供たちが、絵を描いたり、おもちゃや模型で遊んでいるや、机や椅子で秘密基地を造って遊んでいるときは、彼等は、まさにバーチャル体験をしているのである。
大人が度のような目で見ようとも、それは、彼等にとっては、リアリティあふれる世界なのである。
 小さい頃から塾通いをし、遊ばなくなった現代の子供たちは、想像力が落ちてきている。

自己転送能力
 前述の「秘密基地」の話は、厳密にいうと、この「自己転送能力」に入る。
また、子供たちの「ごっこ遊び」は、すべてこれに入る。
 「自己転送能力」とは、その作品や造形物、または実際の場所や架空の場所などに、自分の心を転送できる能力のことである。
 小さい子供は、よく、ビルの見取図や間取り図で、人さし指と薬指で足を造ってとことこと歩くような真似をしている。手を人間に見立ててその建物の中を自分自身が歩いている気持ちになっているのである。
このように、その、平面もしくは立体の疑似空間内に自分自身を置いて、その場所へ行った気持ちになることは、すなわち、自分自身を、そこへ転送しているのである。
これも自己バーチャル化の一種である。
 私が子供の頃、近所に銀行があり、その外壁に出ている柱とその下を支えている敷き石の差が数センチしかなかった。
柱自体は、幅が1メートル足らずで、子供にとっては、両手を広げても柱のエッジからエッジまでは届かなかった。
我々は、これを利用して「岸壁ごっこ」をしていた。
敷き石に乗って柱から柱まで落ちずに向こう側へ行けるかどうかである。
と言っても、敷き石の高さなど20センチもなかった。
しかし、我々にとって、そこから落ちることは、断崖絶壁に落ちることだった。
心臓をどきどきさせながら遊んでいた。
これも、自己転送能力である。
 子供の頃、工作で、ボール紙を使って色々なインターチェンジのような道路を造り、それぞれの道路を立体的に組み合わせながら、車の立体駐車場を造った。
造っているときは、完全に自分自身は、ミニカーと同じ大きさに置き換えられて工作の中にいる。
 エッシャーの絵のように複雑な風景。
我々がこれを鑑賞する時、我々の目線は、エッシャーの描いた道筋を通っている。
これは、昔、少年マガジンの口絵に掲載されていた「秘密基地」のイラストなどを見て自分をそこに転送して楽しむことと同じである。
また、戦艦のプラモデルにおける艦橋が、階段などで複雑につながっている方が見ていて楽しいのも、自分自身をそこに転送しているからである。
同じことは、ジオラマを造ったり、その完成品を見ているときにも言える。
 絵画を鑑賞する時も同じで、作品の中に描かれている世界(抽象画であっても)へ如何に自分自身が入っていけるか、自分自身の気持ちを、そこへ転送して楽しめるかで、自己転送能力が高いかどうかが決まる。
 昔、「ガメラ対バイラス」という怪獣映画があった。
小学生であった私にとっては、これは、SF超大作であった。
そして、当時映画館で、わくわくして見た思い出があった。
しかし、最近、この映画をテレビで再放送していたのを見て驚いた。
私は、こんな子供だましの映画に喜んでいたのかと思った。
私の思いでの中では、この映画は、あくまでもSF超大作でなければならなかったのに。
つまり、私は、小さい頃、その映画を見ながら、もっとすごい世界を造り出し、そこに入り込んでいたことになる。
最近、新たに制作されているガメラ映画は、大人が見ても十分楽しめるくらい迫力がある仕上がりになっている。しかし、これは、単にSFXが進歩したという理由だけではない。
小さい頃から怪獣映画を見て育った世代だからよくわかるのだが、最近のガメラの制作スタッフにとっても、私と同じ思いであり、ガメラ映画は、あくまでも子供だましであってはいけないのだろうと思う。

バーチャル力の必要性
 我々のメディア環境は、高バーチャルのほうに進んでおり、今や、玩具も高バーチャル化している。
我々は、まさに、高バーチャルのメディア環境にいる。
そのため、我々のバーチャル力は落ちて来ているとも言える。
しかし、高バーチャル作品の制作のためには、「低バーチャル作品による高バーチャルの作品創造」という経験と訓練が必要なのである。
我々は、今、このジレンマに陥っているのではないか?
高バーチャルのためには低バーチャルの存在も必要となる。すなわち、両方とも必要なものなのだ。そして、高バーチャル作品も低バーチャル作品も、その制作のためには、豊富な追体験と作品を鑑賞する体験と制作する体験が、必要になってくる。
 これは、仮説であるが、「バーチャル力」とは、「高める」という次元のみではなく、「環境や幼児教育によって如何に摘み取られたか」という次元が存在しているような気がする。
もしくは、摘み取られたり衰えているのではなく、眠っているかである。
しかし、いずれにしろ創造力を高めるためには、数少ない情報源(低バーチャル)から自己の内面にバーチャル世界を創造する能力を培ってあげる教育が必要であることに間違いはない。
昔のように低バーチャルの環境の頃は、幼児体験のみでよかったかもしれないが、現代は、もはや高バーチャルの環境である。今や、バーチャル力の育成のためには、低バーチャルからの高バーチャル創造という訓練が必要になってくる。
 「バーチャル力(シミュレート力、想像力、自己転送力)」は、人間特有の能力であり、これによって、人間の文明は発達したし、文化の交流も興った。
もしも、この能力が失われるようなことがあると、人類の文明も文化も衰退する。
 「バーチャル力」は、「イメージング」というよく使用される言葉に似ているが、しかし、置き換えられない。
「イメージング」という場合、「◯◯の様なイメージ」とか、「この図柄から連想される(受ける)イメージ」とか「イメージを引き出す」とかいったように、「バーチャライズ」以外にも、創造するきっかけや創造のための、主にレファランスとして使用される場合もあるからだ。
したがって、「イメージング」という言葉は、曖昧であり、「バーチャル力」の方が、その目標と役割がはっきりする。
 ところで、絵画を鑑賞し、その世界に入り込むということは、今では、高度なバーチャル力を要求される。
前述の絵画が飾れる場所は、企業や学校や病院の会議室やロビーしかないと言った言葉を思い出していただきたい。
この場所は、実は、低バーチャルの環境下にあるのである。
ボーっと絵を眺められて、そのドラマ性に浸れる場所、しかも広告塔やCMソングやモニターの画像の流れていない場所、他の時間軸を感じさせない場所は、現代ではここしかないのである。

イラストとバーチャルの関係
 私が今から話に使用する「イラスト」という言葉は、本来の意味である「本の挿絵」という意味である。
 イラスト付きの本は、イラストの全くない本よりも高バーチャルである。
しかし、だからと言ってイラスト付きの本は、子供のバーチャル力を落とす要因になるであろうか。
私は、イラスト付きの本は、バーチャル力を高めることはあっても落とすことはないと思う。
例えば、「宝島」や「しろばんば」のことを思い出してもらいたい。
もしも、これらの本に全くイラストがなかったとしたらどうだろうか。
宝島の時代背景や衣装などを読者は想像できるであろうか。
これらの時代の民族や風俗のかもし出す世界を見ることにより、さらに、読むことによるバーチャルの世界は広がり、その経験がアラヤ識に蓄積され、以後の創造活動に役立つと考えられる。
 イラストは、バーチャル力の育成にとって、補助的な役目を果たすのである。


創造活動をするために、時前に必要となる力(時前能力)
 創造活動をするためには、表現力とか、バーチャル力とかの芸術的な能力以外にも、様々な能力が必要である。
 創造活動をするために前もって必要となる能力には、大きく別けて、芸術品を創作する上で必要とされるものと、学校教育の上で必要とされるものがあるが、ここでは、前者のみについて説明し、後者については、第6章で詳しく説明する。

強い目標達成願望
 まず、強い目標達成願望が必要である。「つくりあげたい」「自分の内面にある世界を具現化して共有したい」「伝えたい」などの願望である。
強い目標達成願望の前提にあるのは、達成観や成功の経験であり、これが必要条件となってくる。
通常は、ほとんどの子供たちは、幼児の頃の体験として、折り紙など、何らかの「つくりあげたことがある」という造形体験を経験している。
実は、これが当然なこととして小学校や中学校で認識されているので、この「一度は物を造り上げた経験」というものが軽視されているように思える。
しかし、私は、かって教職時代に、生まれてから一度も物を造ったという経験のない生徒に出くわした。しかも、同じ学年に何人もである。
一度も物を造った経験がないと、物を破壊することしかできないのである。
そして、その作品が(世の中にある造形物であっても)いかにしてつくられているのか、また、どんな気持ちで作者はつくったのかを読みとることが全くできなくなる。

分析力
 分析力は、作品を制作する場合、二つの場面で必要となる。
 一つは、他の作品や造形物、または、資料として図柄や紋様などを見て、それを参照として、自分でも作品を制作しようとする場合である。
例えば、大正時代から昭和初期に流行ったアールヌーボー調の書体(これには決まった形式はない)を使用してポスターを制作したいと考える場合。
これらの書体の持つある程度の「決まり」「方程式」を見抜き、何がこの書体の雰囲気をかもし出しているかという「要素」や「方程式」を分析する能力が必要となってくる。
 もう一つは、モチーフとしての対象物を前にした場合、その物体の構造や組み立て、骨組みを見抜く力である。これは、日本画や洋画、彫刻においては、デッサン力の一領域とされている。
 分析力の前提条件として、以下に挙げる観察力、発見力と集中力が必要である。

観察力、発見力
 観察力と発見力は、上記「分析力」の前提条件となるばかりではなく、通常の生活からのモチーフの発見、感動の発見にも必要である。
観察力と発見力の前提条件としては、さらに、好奇心が必要であり、また、「観察されたものが自分にとって有効である」という認識が観察者になければならない。
「観察されたものが自分にとって有効である」という認識を持つためには、世の中に存在するものが観察者にとって、価値を持っているとみなされるものが多ければ多いほどよい。
つまり、観察者はプラス思考を行なわなければならない。
 その物や事象や風景が好きかどうかは、経験とそれが蓄積されるアラヤ識による。
幼児体験が好ましい物であったら、この世に存在するものの中で、自分が快と感じる物の割合は、増えるであろうし、幼児体験がいやなことばかりであったら、その逆の結果になる。
つまり、その物体や事象が、自分にとって快であるか不快であるかということは、アラヤ識の影響にあるので、かなりの個人差が生じることになるが、それは、後述の追体験と制作体験、鑑賞体験などによって補正される。
 もう一つ、観察力と発見力の前提条件として、以下に挙げる集中力が必要である。

集中力
 集中力には、見る(観察)する場合の集中力と制作する場合の集中力がある。
人間の集中力というものは、「集中しろ」と言ってもなかなか集中力が上がるものではない。
人間が集中しうるためには、それなりの理由があり、見る集中力の場合には、好奇心を持って見ている場合であり、すなわち、未体験のもの(驚き、滑稽、恐怖、感動、美、感動を共有しうるバーチャル体験、自己にとって有効な情報、ものが造られている場面など)に接しているときである。
 また、制作上の集中では、その完成したもの、もしくは、完成したという事実が、何らかの形で自分にとって有効ということがわかっており、その目標達成に向かって突き進んでいる場合である。
このためには、作者は、ある程度、先に述べた自己のシミューレート力で完成された姿をシミュレートしていなければならない。しかも、その姿は、作者にとって好ましいものでなければならない。
これが、絵画制作の場合であれば、制作中にも、作者は、自己の造り出したバーチャル空間にいることになる。

忍耐力、持久力
 作品の制作には、「ものを造る楽しさ」と同時に、常に「生みの苦しみ」が伴う。
折り紙やプラモデルなどの、すでに決められた形を制作する場合はそうでもないが、作品の表面に現われるスタイルや表現方法や自己の表現したい内容などにおけるオリジナリティーが多くなればなるほど、生みの苦しみは増すことになる。
制作者は、その制作する作品の目標が高くなればなるほど、また、オリジナリティーの純度が高くなればなるほど、生みの苦しみは増していく。
したがって、制作者は、常に生みの苦しみと闘わなければならない。
 芸術の制作活動をしない人(いわゆる素人の人)が、旅先で美しい風景に出くわしたとき、「自分にも絵が描けたらなあ」と言う場合があるが、この場合、彼にとっては、「自分にも絵を描く技術があればいいな」という意味なのであり、技術さえあれば何とかなると思い込んでいる。つまり、生みの苦しみの概念が欠如しているのだ。
ここに、いわゆる素人と作家のギャップがあると思う。
絵をならったはいいが、だんだんと生みの苦しみが増えていく、「こんなはずじゃなかった。」「自分には、絵は向いていないのではないか。」と思い込んでいくのだ。
かって、私の教職時代に、写生大会の日の朝、ある同僚の教師が「こんな天気のいい日に外で伸び伸びと絵を描くと気持ちがいいだろうな。」と言ったことがある。
そのときは、別に反論も肯定もしなかったが、私は、「絵を描くことは、そんなに楽しいことばかりじゃない。この先生も生みの苦しみを知らないな。」と思った。
 さて、生みの苦しみに打ち勝つためには、集中力の項で話したのと同じように、その完成したもの、もしくは、完成したという事実が、何らかの形で自分にとって有効ということがわかっており、その目標達成された姿をシミュレートしていなければならない。
しかも、その姿は、作者にとって好ましいものでなければならない。
これを強く信じることを心の支えとして、後は、忍耐力と持久力でカバーするしかないのである。
言葉をかえれば、忍耐力と持久力のバックにあって、それを支えるものは、「自己にとって有効とみなされる完成を信じる力」と先に述べた「強い目標達成願望」なのである。

記憶力、回想力
 記憶力と回想力は、経験から来る自己の好ましいイメージを心のなかに留めておいたり、回想によって思い出の絵を描いたりする場合に有効である。

挑戦する力、冒険する力
 制作する過程において、常に今までやったことのない技法やスタイル、表現方法、モチーフ、テーマなどについて、失敗を恐れずに挑戦していくことが重要である。
挑戦する力、冒険する力がないと作品は、マンネリズムに陥る。
ただし、間違って捉えられると困るが、マンネリズムとは、後述するキープコンセプト(制約の美)とは違う。
キープコンセプトとは、制約の中でいかに新しいものを造り出すかという創造の美である。
たしかに、斬新さと独創性で世に出てきた作品ほど、以降は、キープコンセプトに移行しているものが多いという事実はあるが。(ウルトラマンなど)
 挑戦と冒険を次々に繰り返して成功した芸術家の代表は、ピカソとビートルズである。
彼等に共通している点は、単に伝統の打破ということにとどまらない。
重要なのは、権威や権力に媚びない精神と、有名になっても、その名声や欲に執着しない心である。
地位や名声に取りつかれると、それを守ろうとして、作品はマンネリズムに陥ることになる。
しかし、彼等は、やみくもに単に新しいもの、誰もやっていないものを造り出してきたわけではない。
権威には、媚びなかったが、大衆のニーズはよく心得ていたのだ。
最近の前衛絵画は、前衛が権威をもってしまったがために大衆のニーズから遠くはなれているが、彼等は、大衆のニーズを感じており、ピカソは、サロンのための作品を制作したわけではなかった(確かにサロンには出品しているが、前述のように、その作品は消費者の生活を念頭に入れていた)。
また、ビートルズは、60年代の世界の若者の文化までも変えてしまった。権威とかアカデミズムを念頭に制作していたら、このようなことは不可能であったろう。
 私が「名声や欲に執着しない心」などとに書くと、前述の「創造する動機を引き出すための利」で書いたことと矛盾するではないかと思われるかもしれないが、そうではない。
あれは、芸術的な創造活動を全くしたことのない、いわゆる素人の方に関して、造形活動に入るためには、その意欲を引き出すためのひきがねとしての必要な利が必要不可欠なのであり、いわば、造形をするための方便であり、入口である。
したがって、とにかく一度でも造形活動をすることによって、「造形をする楽しさ」とかのいわゆる金銭欲、名誉欲以外の利益を見い出すための方便になればよいのである。
これが、いつまでも、このような利益のために制作活動をしてもいけないし、また、そのような作品は大衆に向かえられないし、新しい物を生む可能性もない。
確かに、ビートルズにもピカソにも下積み時代があった。
彼等も最初は、ハングリー精神に燃え、ビッグになりたいと思っていたことがあったのだ。
これは、彼等にとって制作のための引き金であり、目標達成のための源動力であった。しかし、彼等はそれだけに留まらなかったのだ。
 ところで、制作する過程において、常に今までやったことのない技法やスタイル、表現方法、モチーフ、テーマなどについて、失敗を恐れずに挑戦していくことに関しては、制作結果を完全にシミュレートすることは不可能である。しかし、これを繰り返すことによってシミュレート力は高まっていく。
新しい経験とそれを繰り返す経験とがシミュレート力を高めていくのである。

独創性
 人間には、他の人とは違う物を身に付けたい、使用したい、造りたいという欲求がある。
これが、「創造」には、必要なものである。
この能力だけは、伸ばすという次元のものではなく、摘み取られないようにするものである。
 しかし、これが芸術教育や創造活動に必要であるがために、学校体制とは、しばしば相反する結果となっている。

他への思いやり
 これは、大衆のニーズと密接な関係がある。
「他への思いやり」とは、作品を制作し、その表現の構想をしていく過程において、作品ができ上がった場合にそれを鑑賞する人に、もしくは、使用する人にとってどのような利益を生み出すかを思いやる力である。
鑑賞者や使用者が、その作品に接したときに快になるか不快になるかをシミュレートする力と言ってもよい。
ここで言うところの、鑑賞者や使用者の利益とは、懐かしさやバーチャル体験などの情緒的快感、「美」や「かわいらしさ」などの視覚的快感など、また、使いやすさや情報の提供などである。
 「他への思いやり」については、環境デザインや照明デザイン、内外装、インダストリアルデザイン、工芸分野においては重要視されているが、ファインアートの分野や学校教育における「ポスターのデザイン」の授業などでは軽視されがちである。
特に学校の美術教育現場においては、「表現」イコール「訴え」という、まちがった固定観念ができ上がっており、一方的に作者の伝達事項のみを表現しようとする風潮がある。
 しかし、「水を大切に」とか「地球を守ろう」というだけでは、人の心に訴えることはできない。
言葉で表現できない表現が可能だから、伝達手段としてのポスターが存在するのである。ましてや、その背景におどろおどろしい風景があれば、たいていの鑑賞者は不快を感じる(中にはおどろおどろしいのが趣味の人もいるが)。
世間一般に貼られている広告やポスターを見ればわかるように、そこには、鑑賞者を魅了するような言葉(キャッチコピー)が使用され、作品そのものは、決して不快感を与えないものだ。
 「伝えること」と「訴えること」と「知らせること」とは、それぞれ微妙に違う。
伝える媒体には、何度も書いているように様々なメディアがある。
その内容は、「美」とか「自己に内在しているユートピア」だとか「伝えたいこと」「知らせたい事柄」「訴えたいこと」などである。
そして、「美」と感動のの要素を取り出し、それを加工したりアレンジすることにより、鑑賞者や使用者の心に、より響くようにすることが表現なのである。
決して、「表現」イコール「訴え」ではないのである。

応用力
 応用力とは、何らかの作業をする過程において、過去の体験(追体験、鑑賞体験、制作体験、バーチャル体験)から、応用することのできる能力である。
 応用力には2種類あり、一つは、精神面での応用力である。
すなわち、表現の構想過程(特に加工、アレンジ)や創造の方法(きっかけ、特にリファレンスによる創造方法)において威力を発揮する。
 もう一つは、技能(肉体)面での応用力であり、過去に経験した技術、技法を応用する場合に用いられる。
 どちらも、体験によって、その能力が付いていく。


表現力(加工、アレンジ、編集)&感性

表現力
 造形分野における表現とは、自己の内的世界をメディアを通して現象世界にアウトプットする(具現化)際に、アラヤ識から沸き上がってくるイメージを、より自分にとって好ましい方向に、もしくは、より伝達しやすいと思われる方向に加工したり、アレンジしたり、編集したりすることをいう。
そして、その能力を表現力という。
 表現力には、大きく別けると「再現力」「構築力、編集力」「加工力、アレンジ力」「時間軸表現力」の四つにわかれる。
 ここでは、その能力について説明し、具体的な表現方法は、「表現方法」について述べる。

再現力
 再現力とは、現象世界に存在するものを2次元、もしくは3次元に写す能力、つまり、写生力、写実力、リアリティの再現力と、作者の内面にある世界を2次元、もしくは3次元に具現化する2種類の能力を言う。
前者は、主に狭義のデッサン力と言われているものである。
 再現力とは、対象が現象世界に存在するものであれ、作者の内面に存在するものであれ、それをバーチャライズする能力であるともいえる。
 再現力は、体験と訓練によってどれだけでも伸ばすことが可能である。

構築力、編集力
 バランス感覚の能力のことでもある。
構築力、編集力は、色における場合と形における場合、そして色と形が互いに影響しあう場合がある。
 さらに、細かく見ていくと、それぞれに、めりはり(強弱)、コントラスト(対比)、構成、配置、配色、リズム感覚、統一感、安定感、連続感などの構成美の要素を構築したり、編集したりする能力が存在している。

加工力、アレンジ力
 対象となるモチーフが現象世界に存在するものであれ、作者の内的世界に存在するものであれ、それを加工したり、アレンジしたりする能力のことをいう。
大まかに別けると、アウトプットした作品(対象物)が2次元の場合と3次元の場合がある。
 これは、つぶさに見ていくと、変形(次元変換、誇張、省略と複製、合体、ペースト、回転、反転、拡大と縮小)と変換(色の変換と形の変換とテクスチャの変換)が存在する。
 変換は、さらに細かく分かれていくが、これについては、後述の「表現方法」に譲ることにする。

時間軸表現力
 時間軸表現力には、2種類あり、一つは、アウトプットする作品に時間軸がなく、が静止している場合である。
すなわち、静止している立体や画面にいかにしてドラマ性(時間軸)を持たせ、鑑賞者に時間軸の連想をさせることができるかという能力をいう。
 もう一つは、時間軸のある作品、つまり、映像(ビデオ、映画、アニメ)、パフォーマンス、紙芝居、舞台芸術などがアウトプットすべき作品である場合であり、この場合、時間軸表現力とは、時間の編集、加工能力のことを指す。
漫画の場合は、これは、コマ割りに当たる。

演出力
 「演出する(direct)」という場合、舞台芸術や映画、ビオオ、アニメなどの時間軸を含むメディアの表現の時に使用される言葉である。
この言葉は、「編集する(edit)」とは、明らかに別の場面で使われている。
「演出」は、役者、舞台美術、衣装、照明、効果音、声優などの要素を受け持つ芸術家(表現者)を総合的に使用して表現する意味のようである。
しかし、静止している写真を撮影する場合でも「演出効果」と言う場合もあるので、時間軸を連想させる表現が絡んできたときに使用される意味に定義し直した方が良いように思える。
 つまり、「再現」「構築、編集」「加工、アレンジ」の表現力のみでも表現力は、成り立つが、そこに時間軸が絡み、「時間軸編集力」が必要となったときに、これを「演出力」と呼ぶ方がわかりやすい。

デッサン力
 「デッサン力」と言う場合、木炭デッサンや鉛筆デッサンなどを言う場合の、いわゆる写生力を「デッサン力」と言う場合と、トリミングする能力、構図、配置する能力などの、いわゆる構成力までも含めた意味で「デッサン力」と言う場合とがある。
 また、表現力とは、「美を引き出す力」ともいえる。同じように、「かわいさを引き出す力」でもあり、「かっこよさ引き出す力」や「感動を引き出す力」でもある。
とにかく、表現力とは、人間が視覚的に「好ましさ」とか「快感」を覚えるものを引き出す能力であるといえる。

感性
 しかし、時代、風俗、地域性によって、「快感を覚えさすことのできる表現」や「その表現に対する価値観」の最大多数は、存在しており、制作者として、これを感じとり、作品にも表現できる能力を「感性」と言う。
前述のピカソとビートルズのときにもお話ししたが、彼等が、大衆のニーズを知っておったというのは、彼等の感性が優れたことになる。
ということは、大衆の感性と彼等の感性が同じであり、時代がそのニーズの方向に動いていたということも言える。
 私が、ここで言うところの「感性」とは、「芸術的感性」のことである。
一般に「感性」と言うときに、電車のなかでお年寄りに席を譲ったり、電車の中では大きな声で話さないことといった「道徳心」も「感性」と言うが、「感性」には、この様な「一般的な感性」と「芸術的感性」の2種類がある。
これが、意味が違うのに同じ「感性」という言葉で混同されて使用されるために、「美術教育イコール徳育」という誤解(しかも短絡的な考え)が生じることになる。
確かに、美術教育においては、徳育を含むがイコールではつながらないし、美術教育で取り扱うことがすべて徳育ではない。
徳育とは、全教科全領域においてなされるべきものであり、この件に関しては、第4章で後述するが、美術は、徳育と体育と知育が見事なバランスで融合した教科なのである。
「美術教育イコール徳育」という見解は、第1章で述べた、体育の精神論と同じ理論を招くことになりかねない。
 徳育をどう定義するかによっても大きく変わってくる。
徳育が道徳教育と同じ意味合いである場合、造形教育における徳育とは、先に述べた「創造に必要な精神面での能力の中の特に時前能力のことをを指す。
「他への思いやり」の項目をお読みいただければ、それがよくわかると思う。
一方、徳育が「心を扱う教育」と解釈した場合は、精神面での能力すべてを指す。
この場合は、「情操教育」という意味に近いと思える。
この情操教育という意味も曖昧である。
 同じように「体育」(この場合、体育科ではなく、知育・徳育・体育の体育)も体を鍛えて運動能力を高めるための教育なのか、それとも「体を扱う教育」によって領域が変わってくる。
後者の場合、造形教育における「肉体面での能力」は、体を使い、体で覚えていく教育なので、これは、体育の領域になる。しかも、これは知育を伴っている。
 「知育」も同じで、これが知力と知識を扱う領域なのか、それとも「頭を扱う領域」なのかで意味合いが変わってくる。後者の場合、造形教育における「手段」は、知育の領域に入る。
 知育・徳育・体育という分類方法は、一見便利に見えて、その実、各教科の各領域を細かく見ていくと、曖昧でどちらに分類されるのかわからない部分が見えてくる。
もう一度、情操教育の定義も含めて、知育・徳育・体育をきちんと定義した方がよいように思える。
私は、知育・徳育・体育は、頭・心・体の教育であると思っているし、この分類のほうがわかりやすい。
 前置きが長くなったが、とにかく、ここで「感性」という場合には、「芸術的感性」と言う意味に限定して使用していきたい。
 「芸術的感性」とは、精神的要素ではあるが、道徳心とは少し違う。
「芸術的感性」とは、前述のように、「快感を覚えさすことのできる表現」や「その表現に対する価値観」の最大多数を感じとり、作品にも表現できる能力を「感性」と言う。
確かに、大衆のニーズを感じとり、そのことが他を思いやることになると言えば、それも徳育の領域であると言えなくもないが。
 「表現」が、「イメージを、より自分にとって好ましい方向に加工したり、アレンジしたり、編集したりする」いわば、自分を中心にして自己の内的世界を見ているのに対し、「感性」とは、自分と外的世界の関係によって成り立つものである。
そして、そこには常に「せめぎあい」が生じており、「表現」と「感性」とは切っても切れないものである。だから、私は、「表現力」と「感性」を同じ項目としたのである。
 「表現力」も「感性」も、たくさんの、しかも様々な作品を鑑賞することや自己の追体験により培われるものであり、何かしらの特別な能力の養成方法が存在するわけではないのである。
しかも、単に作品を「見る」だけでは、だめなのであって、そこには、観察力や分析力などの時前能力(後述)、そして前述のバーチャル力の存在が不可欠である。
 「表現力」や「感性」が、たくさんの、しかも様々な作品を鑑賞することや自己の追体験により培われるものである、ということを表わしている例がある。
 私の教員時代に、美術部の女生徒たちが4人で、各自、自分が描いた漫画(吹き出しがないのでイラストと言う)を持ちよって来て、「◯◯ちゃんのはかわいい」とか「◯◯ちゃんのは上手」とか言い合いながら合評会をしていた。
しかし、私には、なぜ◯◯ちゃんのがかわいいのか、なぜ◯◯ちゃんのは上手なのかわからなかった。
同じような漫画に見えたのだ。
 しかし、考えて見ると、今の日本人に色々な作者の浮世絵を見せて、どれが歌磨の作品か当てろといっても、ほとんどの人がわからないであろう。
私も、かってはそうだった。
それが、浮世絵に興味を抱き、授業で使用するために色々な資料を見ているうちに、なぜ歌磨の作品がいいのか、なぜ歌磨の線がきれいなのかわかった。
というよりも、それが好きになった。
歌磨の美人画は他の美人画がとは違うと思えるようになった。
感性が江戸時代の最大多数の価値観に近づいたのである。
 たぶん、同じことが、ガンダムなどのロボットアニメの世界(キープコンセプトで色々と出てくるがどこが違うのかわからない)やオートバイのデザイン(乗らない人にとっては、同じように見える)、そしてトラック野郎のデザイン、ヘビメタのデザイン(知人に聞いたら、その服飾デザインにも流儀があるらしい)などにも存在しているのだろう。
また、「とりあえずブランドだと安心」という気持ちでなくブランドに凝っている人(シェネラーなど)は、ブランド品を買い集めているうちに(金はかかるが)その「良さ」に気付くく場合もあるだろう。
さらに、「ゴジラオタク」と呼ばれている人達は、ぬいぐるみの美しさに気づき、歴代のゴジラスーツが、どの映画で使用されたものか人目でわかるという。
 現在は、同じ民族、同じ国の中であっても、その趣味趣向によって多様な文化や価値観が存在しうる時代である。
だからこそ、表現力と感性を伸ばすためには、より多くの作品鑑賞の経験が必要になってくる。



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