寓意編-4




まだまだある寓意



リリスに愛を与えると子を産む

なぜ、リリスにロンギヌスの槍を刺すと足が生まれて、卵を産まなくなるのか。

つまり、ロンギヌスの槍を(=A10=愛を=生殖を=SEXを)突き刺すことにより、子供が生まれるということなのだ。

ロンギヌス=男根でもある。



愛の無い子供には目(eye)が無い

ロンギヌスの槍を(=愛を=eyeを)与えると出産するのに、使徒には、瞳がない。

つまり、

使徒=愛(=eye=目=ロンギヌスの槍)の無いSEXによって生まれた子供

ということなのではなかろうか。

つまり、

使徒=私生児=私徒

だから、使徒は親を探しに来る。

使徒とは、

使徒=死徒(死すべき存在)=子徒(子供=天使)=視徒(視聴者)=私徒(私生児)

である。

そして、シトは、「ヒトでなし」である。

つまり、ここはアイロニーであり、

「子供は大人じゃないから人でなし」

「私生児は人でなし」

「視聴者も人でなし」

「だから、死ねばいいのに」

しかし、

「人間も18番目のシトなのよ」

実は、「人でなし」と言う人間こそが、「人でなし」であった。



 ロンギヌスの槍

矛盾は、矛(ほこ)と盾(たて)と書く。

これは、中国の故事で「韓非子」に書かれている。

昔、楚(そ)の国に矛と盾を売る者がいた。

この男が「この矛はどんな盾をも貫き、この盾はどんな矛も通さない」と言ったところ、それを聞いた人に「その矛でその盾を突いてみよ」と言われ困ったということによる。

矛は、槍が主流になる前に使用されていた武器で、まさに量産機の盾をもう少し長くしたような形をしている。


ロンギヌスの槍は、愛(eye=目)を与えるものでもあった。

 ところで、補完できない(アイオ与えられない)ロンギヌスの槍のコピーは、弐号機のeyeを突き刺し(愛を奪い)、弐号機のeyeを見たシンジは、オリジナルのロンギヌスの槍(愛を=A10=eye)を呼び戻す。

 神から貰った(盗んだ)愛を(A10=eyeを)返すことが、福音の終わりであり、これが補完である。実際にアスカは、片方の目しか失わず生き延びた。

 また、量産機の矛(ほこ)の形の盾(たて)が、ロンギヌスの槍のコピーに変化する。

テーゼはアンチテーゼという矛盾を含むというのが、ヘーゲルの言う弁証法である。矛盾という言葉の語源は、中国の盾(たて)と矛(ほこ)を売る武器商人の話から来ている。

矛は、槍が主流になる前に使用されていた武器で、まさに量産機の盾をもう少し長くしたような形をしている。

つまり、量産機の盾は、矛でもあり槍でもあり、唯一矛盾のないもの(=ジンテーゼ)ということになる。

それは、最強の武器であり、 絶対不過侵領域(ATフィールド)を貫く。

では、ロンギヌスの槍のコピーどうしで闘ったらどうなるのか?ここにも、やはり矛盾がある。

つまり、愛にも矛盾があるということになる。

第七章で述べたように、絶対不過侵領域(ATフィールド)=トポロジーの差異であるならば、それを貫くものは、愛を与えることであるということになる。

しかし、愛にも矛盾があり、それは奪ったり、与えたりするという作用の両方を持っている。



量産機のスタイルに見る寓意

 量産機の頭は、へびに似ている。

そして、背中には羽根がある。

 世界的に見ても、古代宗教には、蛇を祀るものが多いと言う。

ミトラスは、獅子の頭に蛇が巻き付いている。

また、ヒンズー教のシヴァ神は、蛇神であるし、古代中国の伏儀と女禍も蛇神である。

日本でも、オオナムチが蛇神であると言われている他、アマテラスも蛇神であるという伝承があるらしい。

 蛇を祀る所以は、蛇が脱皮をするところから、蛇は永遠と再生力と生命力の象徴と認識されているかららしい。

 そして、面白いことに、この蛇を祀る民族と敵対している民族は、必ずと言っていいほど鳥の宗教であるという。

これは、蛇の天敵が鳥であり、鳥は蛇を食うからだという説がある。

 この相反する蛇と鳥の二つの神を同時に持っているスタイル、それが量産機である。

確かに、量産機は、再生したり、(リリスと融合したときは)脱皮するように顔がむけてレイの顔が出てきた。

さらに、蛇のような口は、鳥であるアスカ(飛鳥)をついばむのだ。

鳥と蛇の関係が逆転している。

 しかも、この量産機の持っている武器は、矛と盾という相反するものを兼ね備えているのだ。

 すなわち、量産機というものは、相反する身体、相反する武器を同時に兼ね備えている、最強のスタイルをしているということになる。




小さくなっていくアスカの目(=eye=愛)

先日、カミーユさんという方から実に興味深い意見をいただいた。

内容は、以下の通り。

 はじめまして、亀山といいます。石原さんの論文を読んで感銘を受けた者です。

 ところで、石原さんは「Air」のフィルムブックはもう読みましたか?

 その中で、気がついたことがあります。映画を見た当初から、エヴァ量産機と戦うアスカの顔が狂気に取りつかれた顔(俗にゲゲゲの鬼太郎状態)になっていたことが気になっていました(それでも私はアスカを余計いとおしくは感じましたが)。手法としてはゼルエルと戦った時のシンジと対比させているのだろうとは思いましたが、なぜそんな顔に見えたのかわかりませんでした。フィルムブックを見てやっとわかったのですが、戦自の時に比べて、エヴァ量産機と戦う時のアスカの瞳が点のように小さくなっていました。なんとロンギヌスの槍に貫かれる前から既にアスカは


eyeを=アイオ=AIO=A10


失いつつあったのです!


愛を(eyeを=目を)失っていくからこそ、「殺してやる」などという台詞が出てくるし、アスカは残酷になっていく。

しかも、この第25話の英文のタイトルの意味は「愛は破壊的」。

まさしく、アイロニー(愛ロニー?/eyeロニー?)である。




ATフィールドのもう一つの意味

Absolute Terror Field(絶対不可侵領域)

「位相空間を中和していきます。」「いえ、浸食しているんだわ。」

位相空間=トポロジー

位相空間(トポロジー)には、時空間内の座標の位置という意味の他に、住んでいる地域や世代の違いによる、ものの考え方、道徳感、習慣、風俗、慣習などの違いというような意味もある。

 戦中派、団塊世代、みゆき族、太陽族、雷族、全共闘世代、アウトドア世代、暴走族、テレビ・アニメ世代、三無主義世代、新人類、オタク世代、テレビゲーム世代、ジュリアナギャル、コギャル・マゴギャルなどの世代間に横たわる、絶対に理解しあえない価値観、風俗、風習、道徳感の差異。

 理系と文系、文化会系と体育会系、保守派と核心派、右派と左派、ヘビメタ、パンク、ヒップホップ系、コスプレ、フィギアなどの文化やイデオローグ、はたまた趣味嗜好による差異。

 全世界レベルの民族や宗教や風俗、慣習、習慣による差異はもちろんのこと、日本国内でさえも、東日本と西日本、太平洋側と日本海側、北海道、東北、関東、関西、九州や各地方単位、村落単位によって違う、ものの考え方、道徳感、習慣、風俗、慣習などの差異。

長ねぎは東日本では白い方を使うが、西日本では青い方を使う。

もちの形状、あげの形状、醤油の味、カップヌードルの味、うなぎのさばき方、味噌の使用方法、すきやきの作り方、雑煮、交通マナーの地元におけるルール、電車での席の座り方、電話のマナー、酒の席のマナーなどなど数え上げたらきりがない。

さらに、これに個人の生まれ育った環境や教育による価値観の差異がある。

 しかし、それぞれが皆、自分が正しい、自分が標準、自分が一般的、自分が善だと思って生きている。

すなわち、ATフィールドとは…

=Absolute Terror Field(絶対不可侵領域)

=トポロジー(位相)の差異

=時空間内の座標の位置

=住んでいる地域や世代の違いによる、ものの考え方、道徳感、習慣、風俗、慣習などの差異

=他を認めたがらない存在(敵を作りたがる)

=お互いに拒否せざるを得ない悲しい存在=人類

=共存できない存在

=誰もが持っている心の壁、心の光

というように、すべてが同義になっていく。



「今、全ての心を一つに。」

=心の補完

=いきづまった群体としての人類を人工進化させる

=アダム・カドモン(=エデン)への回帰

=サード・インパクト

=全生命のリセット

 しかし、現実には、トポロジーの差異は、益々加速度的に大きくなっている。

これを回避するためには、浸食や排除や統一ではなく、中和や共存でなければならない。

※「わかったわ。ATフィールドの意味が」

そして、

トポロジーの統一は、平和を生まない。

喧々がくがく、色々な意見を自由に言えるという現実こそが、実は、平和な証拠なのである。

つまり、

トポロジーの統一=補完=エデンが気持ちの良い世界であるというのは、虚構であり、エヴァの論考などのように、喧々がくがくであっても、色々な意見を自由に言えるという現実の世界こそが、平和なのである。(たとえ、そこが「気持ちの悪い」世界であっても…)




DEATH編冒頭のキールとゲンドウの会話

キール「科学者ってえのは、どうも自分の考えを信じすぎるからね」

碇「独善的ですか」

キール「思い込みが激しすぎるんだよ。現実を的確に把握できん連中だからな」

碇「そういう人種が真実を求めている。皮肉なものです」

キール「彼等はそんな、崇高なものではない。(略)求めているのは、自分の気持ちよさだけだ」

さて…

●科学者=出版物やインターネット上でエヴァ関連の解読を行なっている人達(もちろん私を含めて)

●キールと碇=庵野監督とガイナックス

という寓意だとすれば、

これは、庵野監督から我々に発せられたメッセージでありアイロニーであると受け取れる。

しかも、

上記ATフィールドの説明にもかかわらず、まさに、「お互いに拒否せざるを得ない悲しい存在」である人種が真実を求めたがっているからこそ、「皮肉(アイロニー)なもの」なのではなかろうか。




「THE END OF EVANGELION」という映画の構造

 福音とは、神からの愛である。

これは、神から人類が愛を(A10=eyeを=目を=知恵の実を)盗んだことを意味する。

「THE END OF EVANGELION」は、福音の終わりを意味する。

これは、人が神から盗んだ愛を(A10=eyeを=目を=知恵の実を)返すことを意味し、それは全生命のリセットであり、ロンギヌスの槍が全生命のATフィールドを貫き壊すことであり、全生命のアダム・カドモンへの回帰であり、エデンへの回帰であり、補完であり、サードインパクトである。

そして、ロンギヌスの槍によって、全生命から知恵の実(目=eye=愛)は奪い返され、そのかわりに大地に目が出現した。

やはり、ロンギヌスの槍とは、AIO(=eyeを=愛を)奪ったり、与えたりするものだった。

 我々、「THE END OF EVANGELION」を見る観客もまた、驚愕のシーンに目を奪われ、目が点になり、シンじと同じように葛藤し、鏡を見せられる。

弐号機(=アスカ=飛鳥=飛ぶ鳥)が鳥のような量産機に食われるシーンを見て、見ている者は鳥肌が立つ。

 補完の最後に、ゼーレによって言葉が発せられた(言葉が生まれた)が、観客である我々は、補完の展開に言葉を失った。

さらに、最後は、シンジとアスカがエデンであるLCLの海から出てきたように、我々観客もまた、終劇においては、「エヴァンゲリオン」という我々にとって気持ちのよいLCLの海から現実に放り出された。

それは、観客にとってもまた、一種「気持ちの悪い」ものであった。

 このように、観客と映画の内容とは、完全にシンクロし、疑似体験するように仕組まれている。観客を現実に引き戻す(サルベージする)ために。

だから題名も「THE END OF EVANGELION」と呼ばれる。




空の客席に現れる十字架

空の客席のシーンは、客席の一部がシートの色が違うか、またはそこだけライトアップされていて、中央の通路と十字架をつくっている。

客に与えられる愛(=死=補完)である。

つまり、

「まごころを君に」



「何故、あなたはここにいるの」「ここにいてもいいの?」

これは、客に対して言われている。

そして、客席が写し出され、その後に空の客席が写される。

このときの劇場の通路は白い十字架のように見える。

あたかも、使徒を殲滅した後に現れる白い十字架のように…




THE END OF EVANGELIONは自立の物語

 神からの愛を福音(エヴァンゲル)という。

人間が神から愛を(=A10=アイオ=eyeを=目を=知恵の実)を盗んだことが、福音であるならば、人間が神に愛を返すことは、福音の終わり(THE END OF EVANGELION)を意味する。

愛を返すこと、

つまり、これは、寓意として自立を意味している。

 構造編の逆転の項でも説明したように、エヴァは、ジオフロントという子宮からへその尾につながれて行動している。

女性器に当たる部分が、ネルフ本部であり、ここは性器を隠すいちじくの葉である。

しかし、第26話では、初号機は、これを突き破り(リフトアップせずに)外に出る。

すなわち、子の母体からの自立である。

第25話では、アスカが母から自立する。

アスカ「アンビリカルケーブルがなくったって」

「アスカちゃん、いっしょに死んでちょうだい」と言っていたキョウコも、「生きていなさい」「まだ死なせないわ」で、アスカから子離れする。

 第26話では、ユイがシンジから子離れした。

 シンジは、ゲンドウを喰い殺すことによって、親から自立した。

 ナオコは、娘を裏切ることによって、リツコから子離れした。

 レイは、ゲンドウを裏切ることによって、自立した。




最後の台詞

ATフィールドが無く、気持ちの良いエデン(=アダム・カドモン=LCL)から出てきたから「気持ち悪い」

シンジが「気持ち悪い」

話の後味が「気持ち悪い」

残酷なシーンが「気持ち悪い」

映画館で感動して鳴いている奴がいたら「気持ち悪い」

映画館で怒っている奴がいたら「気持ち悪い」

どうころんでも、最後はこのセリフに行き着くし、どういう態度でもこのセリフで返されてしまう。



最後の台詞は、本当に「気持ち悪い」のか

この映画が仮にテレビのロードショーで公開されたとする。

テレビの場合は、最後のスタッフロールは、ほとんどの場合カットされる。

エンディングの後は、コマーシャルになる。

「まごころを君に」をこれに当てはめると、それほど気持ち悪い終わり方にはならない。

THE END OF EVANGELIONのエンディングの気持ち悪い最大の原因はスタッフロールの欠如によるものなのだ。

しかし、昔の映画はスタッフロールが冒頭にあり、エンディングはENDとかFINEとか終の文字だけだったのだ。

これも、THE END OF EVANGELIONのエンディングを気持ち悪いと感じるのは、我々がハリウッドをはじめとする今の映画に慣れすぎたからではなかろうか。

「マイフェアレディ」だって最後は「帰って来たよ」で唐突に終わるし、「風とともに去りぬ」なんかあれだけ引っぱっておいて、最後は「明日考えましょ」で唐突に終わるのだ。

 私は、高校時代演劇部に在籍していたが、このとき某有名演出家S氏の講演で聞いたことがある。

それは、「物語の最後は、主人公と見る者の行動の選択で終わらなければならない」ということだった。

物語が完全に完結したら、心には何も残らないというのだ。

エヴァのラストの後日談(パロディも含めて)は、各雑誌の投稿などでよく見かけるが、こういう現象を引き起こしている事実こそが、あのラストが優れている証拠なのだと私は思う。




SOUND ONLY

 なぜ、「VOICE ONLY」ではないのか?

 SOUNDには、「音」と言う意味の他に「福音」という意味がある。また、「精神」とか「気持ち」という意味がある。

であるならば、彼等は、本来の姿がSOUND ONLY(魂のみ/ゼーレ)であると考えられる。

※サイモンとガーファンクルの「SOUND OF SILENCE」は、「静寂の音」の他に「(神の)沈黙による福音」という意味がある。また、「サイレン(=セイレーン=シレーヌ)による福音」ともとれる。

※Queenの初期の曲「Fathar To Son」でも「Joiful the sound.The world goes around.Father to son,to son.」と歌われる。

「楽しい響き。世界は回る。父から子へ。」という意味だけではなく、「福音はもたらされる。父なる主から息子たる子羊へ。それによって世界は環になる。」ともとれる。

 沈黙による福音とは、すなわち無いことや語られないことによる教えである。

◯モノリス10番の欠如

◯語られない第2使徒

つまり、人は、2=10=知恵の実を盗んだから、無いのだと教えている。




25話と26話の間

そして、25話と26話の間のタイトルバックは、25話と26話が続けて2回流れた。

2回連続が合体してはじめて二重螺旋になる。

DNAの二重螺旋は、片方が父親から、もう片方が母親からの情報である。

であるならば、25話は未来にエヴァ(母)となるべきアスカのエピソードであり、26話がアダム(父)となるべきシンジの話であるともとれる。




なぜ、シンジとアスカが選ばれたのか

最も、自分が嫌いな二人であり、

自分に閉じこもりやすい(他人の拒絶=ATフィールド)二人であり、

そして…

アスカは人類の知識と情報のすべてを、

シンジは人類の情(強迫観念や悩み悲しみなど)のすべてを

それぞれ託された二人である。

だから、レイ(つまりその魂であるリリス)は、はじめからシンジを選んでいたのではなかろうか。

第弐拾参話「碇君と一つになりたい」

第26話「碇君が呼んでる」



第25話から第26話まで

シンジとアスカのシーンに始まり、シンジとアスカのシーンに終わる。




音楽の寓意(もしかして、あまり関係無いかもしれないが…)

その1

第弐拾弐話のアラエル戦→ヘンデルのハレルヤコーラス

第弐拾四話のタブリス戦→ベートーベンの第9交響曲第4楽章

いずれも、エヴァと同じテレビ東京の「TVチャンピオン」の挿入曲である。


その2

DEATH編のヨハン・パッヘルベルのカノン

第25話のヨハン・セバスチャン・バッハの「G線上のアリア」「主よ、人の望みの喜びよ」

いずれも、ヨハンの曲である。

ヨハンは、ラテン語のヨハネである。

ヨハネの黙示録のBGMという意味か?

西洋では、名前は、ほとんど聖書や神話の登場人物から付けられている。

ついでなので、説明しておくと、

ヨハネ=ヨハン=ジャン=ジョバンニ=ジョン=イワン

ミカエル=ミハエル=ミッシェル=マイケル(ミッキー=ミック)

パウロ=パウル=ポール

ペテロ=ペーター=ピーター=ピュートル

ゲオルギウス=ジョルジョ=ジョージ=グルジア

ベルギリウス=バージル

カルロス=カール=チャールズ

ヘンリー=アンリ=エンリケ=ハインリヒ

キャサリン=カトリーヌ=エカテリーナ

リチャード(リック=リッチー)=リカルド=リヒヤルト

イマニュエル=エマニエル

レオナルド=レナード

ユダ=ジュード

マーク=マルコ

ルーク=ルカ

マシュー=マタイ

ジェイムズ(ジム)=ヤコブ

ちなみに、ミケランジェロは、Michealangelo=Micheal+Angelであり、大天使ミカエルのことである。

※「2001年宇宙の旅」の挿入曲は、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」(何と!部分ではなく、全曲通して演奏される)とリヒァルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」(ツァラトゥストラ=ゾロアスター=ザラス・シュトラ))であり、やはり、二人のシュトラウスの曲になっている。


その3

音楽業界では、G=5という隠語である。

5000円は、G銭(げーせん)と言い、1000円をC銭(つぇーせん)と言う。

これは、CDEFGAB(つぇー、でー、えー、ふぁー、げー、あー、べー)というドイツ語読みから来ている。

「G線上のアリア」は、エヴァ伍号機との闘い=G戦場(げーせんじょう)のアリアでもある。


その4

第26話の「甘き死よ、来たれ」

はっきり言って、ビートルズの「ヘイ、ジュード」に似ている。

ジュードとは、ユダとかユダヤ人のことを言う。

ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーが、これを歌うことは、ヨハネとパウロがユダに対してメッセージを送っていることになる。

※先日、映画「マイケル」を見たが、この中で、

「ジョンとポールも言ってるだろ。愛こそは全てだと。」

「使徒の?」

「いいや、ビートルズのだ」

という台詞がある。

ここは、ジョン=ヨハネ、ポール=パウロを知らないと何のことか解らないはずだ。

「甘き死よ、来たれ」は、「ヘイ、ジュード」とは、歌詞の内容はぜん全然違うが、ユダ=ゲンドウへの隠喩が隠されているような気がする。

つまり、

第25話「Air」で使用される曲「G線上のアリア」。

アリア=Airは、バビロニア神話の裏切りものエアー(エンキ)であり、これはゲンドウにあたる。

また、

第26話で使用される曲「甘き死よ、来れ」。これは、「ヘイ、ジュード(Hey! Jude)」に似ている。

Judeとは、新約聖書の裏切り者のユダのことであり、やはりゲンドウにあたる。

THE END OF EVANGELIONのBGMは、両方ともゲンドウへの鎮魂歌ともとれる。

そして、悪魔としての隠喩であるゲンドウは、同じく悪魔である初号機に喰い殺される。

※ここは、鳥であるアスカが鳥である量産機に喰われる構図に同じ。

子が父親を殺すのは、ギリシャ神話のユピテル(ジュピター)と、その父サテュルヌス(=サターン、悪魔、土星)の関係に同じ。

ただし、ギリシャ神話では、父サテュルヌスが子を喰う。



庵野監督がエヴァを造った理由についての推理

まず、壊される眼鏡は、ゼネプロ時代の「帰ってきたウルトラマン」の変身に使用する眼鏡を意味している。

つまり、眼鏡とは、庵野監督の原点を象徴し、また、オタクとの絆でもある。

この眼鏡を、躊躇しながらも壊すのである。

壊させるのは、彼と同じく肉が嫌いな綾波レイである。

レイもまた、庵野監督自身の投影である。

ただし、シンジが庵野監督のプライベートな部分の投影であるのに対し、レイは、オタクの教祖としての投影である。

だから、大地母神リリスという神はオタクの神様としての隠喩がある。

だから巨大化する。

そして、これも壊すのだ。

「絆だから」

「綾波は、どうしてこれに乗るの?」

「絆だから」

「父さんとの?」

「みんなとの」

レイがオタクの教祖としての庵野監督自信を表しているとすると、ここでいう「みんな」とはオタクであり、オタクとの絆として監督はエヴァを制作していることになる。

そして、もう一人の「エヴァに乗るべきかどうか悩んでいるもう一人の庵野監督がシンジとして描かれている。

第26話の公園

 幼いシンジたちがつくっている「お城」は、ピラミッドであり、これはもちろんネルフ本部を意味する。

これを完成させようとしているシンジは、すなわち庵野監督である。

シンジの両脇にいる女の子は、一人は生身の女性であり、これは人であるアスカを意味する。

もう一人の女の子は、人形のようであり、これはレイを意味する

生身の人間とは、現実の女性であり、人形とはアニメなどのバーチャル世界の女性である。

この間で揺れ、一人孤独なシンジ(=庵野監督)が描かれている。

そして、最後にシンジはピラミッドを壊してしまう。

 さらに、第26話においては、映画館のファンの姿を映し出し、「気持ちいいの?」と問いかける。

また、コスプレの衣装を現実世界において見せたり、ネット上の庵野監督の悪口まで映し出した。

LCLとは、まさに気持ちの良いオタクの海である。

ガイナックスのエヴァの書き込みを初めて見たとき、私は、これが LCLの海だと思った。

批判意見も感動意見も両方とも、そこを訪れたものにとっては、お互いの気持ちがわかりあえるからだ。

そこには、ATフィールドは存在しない。

庵野監督は、オタクをそこから現実世界へとサルベージするためにエヴァをつくったのだろうか?

たぶん、そうではない。

庵野監督は、なぜそこまでして、オタクにけんかを売らなければならなかったのか?

それは、

庵野監督にとって、エヴァとは通過儀礼なのだ。

新たなるクリエーターへと進化するための。

これは、福音であり、十字架上の死と新生のイニシエーションであるのだ。

たぶん、庵野監督にとって(私にとっても)理想とされる補完された人物像は、加持リョウジであろう。

だから、第弐拾六話では、最終的にシンジを補完へと導くのはリョウジであるのだ。

だから、庵野監督の次回作は、実写版の「ラブ&ポップ」なのである。


…と、説明しても理解できる人は少ないと思う。

上の理由については、「ガフの部屋」で説明します。


ただ、ガフの部屋で論ずる結論だけを先に言っておきます。

それは、


エヴァンゲリオンという作品は、

「アダルトチルドレンがエヴァにシンクロすると心が痛みを感じるように仕組まれている話」だということ。



リリスは皮肉

シト新生を一言で言えば、「逆転」ということになろう。

第25話を一言で言えば、「矛盾」ということになろう。

では、第26話は何であろうか。

第26話において、リリスは崩れる。

これは、「皮肉/アイロニー」であろう。

オタクの教祖がそのシンボルであるリリスを壊し、オタクにけんかをうったのだから。

「逆転」「矛盾」「皮肉/アイロニー」

これらは、すべてエヴァ解読の手がかりとなるキーワードだったのだ。



皮肉(アイロニー)

テレビ版では、知恵の実を持つ人類は死なず、不死の機能である生命の実を持つ使徒が死ぬ。

すなわち、

愛(=A10=愛)は死なず、不死が死ぬ。


エヴァでは、01、10、11などのようにコンピューター言語である二進法を使用しないと解読できないのに、コンピューターそのものではエヴァは解読できないという皮肉がある。

また、言葉の遊びに見られるように、入力ミスをしないと解けなかったり、高性能のワープロソフトで変換機能が優れたものでは解読できないという皮肉がある。

しかし、この作品がインターネットで広がったという皮肉もある。




 

 

 

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